用語解説 p90-100_人間の尊厳

ルネサンス(Renaissance)(→p.91) キリスト教がヨーロッパの文化に影響を与える以前の、古代ギリシアやローマの学問や芸術の復興。ルネサンスとは、「再生」を意味するフランス語。そうした古典文化の研究を通じて、自由で現実的な生き方を追究しようとする運動をも意味し、人間を中心に考える人間中心主義が広がった。

人文主義(ヒューマニズム)(→p.91) 古代ギリシア・ローマの古典を研究することで、人間性を回復する試み。ヒューマニズムとは、ラテン語のフマニタス(人間性)という言葉に由来する。人文主義と訳すのは、ルネサンス期には、古典の研究を通して、人間としての教養を身につけることがめざされたためである。

万能人(→p.91) スイスの歴史家ブルクハルトが、ルネサンスにおける理想的な人間像をさして用いた言葉。普遍人ともいう。特定の分野にとどまらず、様々な分野においてその才能を発揮し、自の才能を伸ばすことに情熱を傾けた人々。代表的な人物にレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。

『人間の尊厳について』(→p.91) ピコ・デラ・ミランドラの討論会での演説原稿。彼は、神は人間に他の動物とは異なり自由な意志を与えたとし、人間は、自らの自由意志によって自己を形成していくところに人間の尊厳があると主張した。

自由意志(→p.91) ピコ・デラ・ミランドラが『人間の尊厳について』で述べた人間の自由意志は、人間が自らを自由に形成する自由であり、そこに神から与えられた人間の尊厳があると考えた。それは、「万能人」を理想とするルネサンス期の精神につながるものであった。しかしこの自由は、獣にも、神に近い存在にも、何れにもなり得る自由でもあった。その後、エラスムスは人文主義の立場から、『自由意志論』を書き、人間は自由意志によって善悪を選びうるとした。それに反対してルターは『奴隷意志論』を書き、人間にはそのような自由はないと主張した。自由意志の問題は、同時代のルネサンスの精神と宗教改革の精神が衝突する問題であった。

『ユートピア』(→p.92) トマス・モアの主著。この中で囲い込み運動によって農民が貧困化する様子を、「羊が人間を食う」として批判的に描いた。ユートピアとは、ギリシア語で「どこにもない場所」を意味する。

『愚神礼讃』(『痴愚神礼讃』)(→p.92) エラスムスの主著。神学者や哲学者の空虚な議論、君主や貴族の名誉心、聖職者の偽善を風刺した。

『君主論』(→p.93) マキァヴェリの主著。イタリアの分裂状態を憂えて、君主が強い権力を獲得し維持する方策を論じた。君主や君主の行う政治を道徳や宗教と切り離して論じ、君主は狐のずる賢こさと獅子の強さを持たなければならないとした。そこにみられる権謀術数主義はマキァヴェリズムと呼ばれる。

95か条の論題(→p.94) 正確には「贖宥の効力についての討論」。贖宥をめぐる問題を、ルターがヴィッテンベルク大学神学教授として、神学的討論に取り上げた際に掲げたラテン文のこと。ドイツ語訳が印刷され注目を集めた。

宗教改革(Reformation)(→p.94) 中世後期から近世の教会改革運動のこと。これにより、プロテスタント諸派が生まれた。ルターによって始められたとされるが、それ以前の、ウィクリフ、フス、サボナローラを宗教改革の先駆者とみる場合もある。

贖宥状(免罪符)(→p.94) 免罪符と訳されることが多いが、正確には贖宥状である。ローマ・カトリック教会が発行した、罪に対する罰を免除する(赦す)証明書。ルターがこれを信仰のためではなく、資金集めのためのものだと批判したことが、宗教改革の発端となった。

信仰義認説(→p.50、94) 意志や行いにかかわらず、人は信仰によってこそ救われるという考え。よい意志も行いも自分の努力ではなく、信仰と恩寵によるものであるとする。パウロによって強調され、アウグスティヌス、ルターに大きな影響を与えた。

聖書中心主義(→p.95) 教会や信仰に関する事柄を、伝統・慣習によらず、聖書の言葉によって再検討するという、ルターおよびプロテスタントの基本的態度。ギリシア語、ヘブライ語原典による聖書の正確な理解を追究した。

万人祭司説(→p.95) キリスト者は皆等しく祭司(=神に仕える人)であるということ。ルター派またプロテスタントの牧師職を否定するのではなく牧師も一般信徒も含む全信徒が一体となって各々の職業・身分において神への奉仕を行うという考え方で、今日では全信徒祭司性と呼ばれる。

職業召命観(→p.95) 聖職者と一般信徒の間に区別はなく、どの職業・身分も神からの召命(Calling)によって与えられた天職・使命であるとするルターの考え。宗教改革では、カトリック教会の聖職者制度を否定し、聖職者と一般信徒の平等を説く際に強調された。カルヴァン派では、さらに、勤勉に仕事に励み収益・報酬を増大させることが正しいとされ、利潤の追求や富の蓄積が肯定された。

予定説(→p.96) 個人の努力や信仰に関係なく、人は予め神によって救いまたは滅びに定められているとする説。特に、のちのカルヴァン派で強調され、独特の職業召命観と結びついた。

プロテスタント(protestant)(→p.97) もとは抗議(protest)する者という意味で、カトリック側からの呼称。カトリック教会を批判し、そこから分離したルター派(福音主義教会)、カルヴァン派(改革派教会)などの諸派をさす。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(→p.97) ウェーバーの著書(1904~05年に成立)。近代資本主義の原点には、カルヴァン派の倫理である禁欲主義や禁欲的な職業召命観があると指摘した。

モラリスト(→p.98) 近代フランスにおいて、人間を鋭く観察し、特に人間の心理と道徳を探究した思想家。代表的な人物にパスカル、モンテーニュがいる。フランスのユマニスム(人文主義)と重なるところが多い。

懐疑主義(→p.98) もとは、人間の理性は真理を完全にとらえることができないとする立場をさす。古代ギリシアの哲学の中で、特にストア派にみられる。近代ではモンテーニュの「私は何を知るか」(ク・セ・ジュ)という立場や、デカルトの方法的懐疑に表れる。

『エセー』(随想録)(→p.98) モンテーニュの主著。エセーとは、フランス語で試すことを意味する言葉。読書・人生経験に基づいて吟味した思想、意見・判断を書き記したもの。

「私は何を知るか」(ク・セ・ジュ)(→p.98) モンテーニュはギリシア語で判断停止を意味するエポケーという言葉を、フランス語で「ク・セ・ジュ(Que sais-je?、私は何を知るか)」と訳し、自らの懐疑主義のモットーにした。それは「私は何事についても確実には知らないのに違いない」という意味で、真理に到達できなければ、独断を避けて判断を停止し、より深く考え続けるべきだとする考えである。なお、エポケーは、のちにフッサールが現象学の用語として用いている。

考える葦(→p.8、99) 人は葦のように儚く弱いが、理性によって無限の宇宙を把握する偉大さを持つ、ということを表現したパスカルの言葉。葦の折れやすい脆さが人間の存在の無力さ、悲惨さを象徴する。考える葦は偉大さと悲惨さの中間者としての人間を示している。

『パンセ』(Pensées)(→p.99) パスカルの遺稿集。キリスト教信仰の意義を明らかにするために著されたもの。人は自分の悲惨さを認識できるが自分を悲惨から救い出せず、信仰を必要とするとした。理性ではなく心情と愛によって内的に深くキリストを知るべきことを説いた。

中間者(→p.100) パスカルのいう、偉大さと悲惨さの中間者としての人間のこと。人間の偉大さである理性は人間存在の悲惨さを認識するが、神を知ることができず懐疑と絶望に陥る。神を知るためには、理性ではない心情や愛による信仰への飛躍が必要となる。

幾何学の精神・繊細の精神(→p.100) 人間の精神に関するパスカルの用語。
幾何学の精神:客観的原理に基づく推論、抽象的な思考を行う。
繊細の精神:人間探究のために必要な精神。直感(観)的に物事を把握する。