用語解説 p245-262_近代日本の思想

明六社(→p.247) 1873(明治6)年、森有礼の発案により結成された啓蒙思想団体。機関誌『明六雑誌』を発刊し、西洋近代の思想・文化を紹介して、明治時代初期の国民の啓蒙に指導的役割を果たした。1875年に解散。

『日本道徳論』(→p.247) 1887年に出版された西村茂樹の主著。当時進められていた欧化政策に対し、国民道徳を再建するために、伝統的な儒教を基本とし、それに西洋哲学の長所を結合させるべきであると説いた。

『自由之理』(→p.247) J.S.ミルの『自由論』を中村正直が翻訳した書物。功利主義に基づき個人の個性と自由の重要性を説き、自由民権運動に影響を及ぼした。

『学問のすゝめ』(→p.248) 福沢諭吉が1872から76年にかけて出版した啓蒙書。全17編。人間の平等、学問の尊重、国家の対等、一身一国の独立、学者の覚悟、国法の尊重、学問の目的など、近代化のために必要な考え方を説いている。

実学(→p.248) 社会生活に実際に役立つ学問。福沢諭吉は儒学を生活に役立たない観念的な虚学だとして、読み書きそろばんなどの日常的に身近な学問をはじめ、地理学、究理学(物理学)、経済学など西洋の自然科学や社会科学を学ぶべきであると説いた。

独立自尊(→p.249) 福沢諭吉の思想の核心を表す言葉。何事も独力で行い、自分自身の人格の尊厳を保つことを意味する。諭吉は「一身独立して一国独立す」と述べ、国民一人ひとりが「独立自尊」の気風を確立するところに、一国の独立の基本があるとした。

「脱亜論」(→p.249) 福沢諭吉が1885年に『時事新報』紙上に発表した論説。清や朝鮮との連携を図るのではなく、「西欧の文明国」と同じ態度をもってこれらの隣国と接することを主張した。

脱亜入欧(→p.249) 西欧列強の植民地支配から独立を維持するために、後進世界とされたアジアから脱して、欧米諸国の仲間入りを図ること。福沢諭吉の「脱亜論」で提唱された。

『民約訳解』(→p.250) ルソーの『社会契約論』の主要な部分を中江兆民が漢文に訳したもの。社会契約説と人民主権の理論を紹介して自由民権運動に大きな影響を与え、兆民は東洋のルソーと呼ばれた。

『三酔人経綸問答』(→p.250) 中江兆民の著書。民権運動の挫折と明治憲法の制定を前にして、民主化と軍備撤廃を主張する洋学紳士君、他国の侵略による富国強兵を主張する東洋豪傑君、現実的な政策を説く南海先生の3人が、酒を酌み交わしながら日本の進路について議論を重ねるという構成となっている。

恩賜的民権(→p.250) 為政者から人民に施しとして与えられた、限定つきの人権。中江兆民の造語で、日本の人権は恩賜的民権であるとされた。

回(恢)復的民権(→p.250) 英仏のように市民革命などを経て、人民が自らの手で獲得した権利をさす中江兆民の造語。兆民は恩賜的民権と回(恢)復的人権は本質的には変わらないとし、日本の人民が持つ恩賜的民権を、回(恢)復的人権に発展させていくべきであると説いた。

天賦人権論(→p.251) 近代西欧の自然権思想は、日本では天賦人権論と呼ばれた。自由や平等といった人権は天が人間に生まれながらにして与えたものであるということで、自由民権運動の思想的な裏づけとなった。もとは、福沢諭吉や加藤弘之ら啓蒙思想家によって、封建制を批判する思想として紹介された。

『東洋大日本国国憲按』(→p.251) 植木枝盛が起草した憲法案。思想・信教・言論・出版・集会・結社など広汎な自由を認めるもので、政府の圧政に対する抵抗権・革命権も明記されている。

「二つのJ」(→p.252) イエス(Jesus)と日本(Japan)の頭文字をとって「二つのJ」という。内村鑑三は、この「二つのJ」を愛し、生涯をささげることを誓った。内村は清廉潔白な日本の武士道精神こそが、イエスの真理と正義を実現する土台となると考え、自らの信仰を「武士道に接ぎ木されたるキリスト教」と位置づけた。

不敬事件(→p.252) 1891年、第一高等中学校で教育勅語の奉戴式が行われた際、講師の内村鑑三がキリスト者としての信念に従い、勅語への拝礼を拒んだため、不敬として職を追われた事件。教育勅語の解説書を著した哲学者井上哲次郎は、この事件をきっかけにキリスト教を反国家的宗教として攻撃した。

非戦論(→p.253) 日露戦争時に内村鑑三が唱えた開戦反対論を非戦論と呼ぶ。鑑三は、「汝殺すなかれ」という聖書の教えに基づく絶対平和主義の立場から日露戦争に反対した。

無教会主義(→p.253) 内村鑑三の提唱したキリスト教の信仰と主張。制度として形式化・固定化された教会とその儀礼を批判し、聖書と信仰のみを重視する。

『武士道』(→p.254) 新渡戸稲造が英語で著した書物。1899年にアメリカで出版され、日本人の精神を世界に紹介した。新渡戸は日本の精神文化は武士道であり、キリスト教と武士道は融合可能な道徳であると主張した。

教育勅語(→p.255) 1890年に発布された教育の基本方針を示した明治天皇の勅語。忠君愛国を国民道徳として強調し、学校教育を通じて国民に強制された。第二次世界大戦後の1948年6月に国会決議で失効が確認された。

平民主義(→p.255) 明治20年代、徳富蘇峰が、自らが創設した民友社の雑誌『国民之友』において行った主張。明治政府の表面的な欧化政策を批判し、実業に従事する民衆である平民に基礎を置く近代化を唱えるもの。しかし、蘇峰は日清戦争後、国家主義に転向した。

国粋主義(→p.255) 「ナショナリズム」の訳語の一つ。政府の欧化政策を批判して、日本人の民族的特性(国粋)を保持し、より高めることを主張する思想。1888年創立の政教社の立場に代表される。

政教社(→p.255) 政府の欧化政策に反対する三宅雪嶺、志賀重昂らが1888年に結成した団体。雑誌『日本人』を発刊し、国粋主義を唱えた。陸羯南の新聞『日本』と連携し、平民的欧化主義(平民主義)を主張する徳富蘇峰の『国民之友』と対抗した。

国民主義(→p.255) 陸羯南の唱えた思想。羯南は新聞『日本』を発刊し、国民特性の発揮は世界文明の発達を助けると唱えた。個人の自由・権利の伸張と立憲政治の導入を主張し、明治政府の、国民よりも国家を優先する姿勢を批判した。

超国家主義(→p.255) 国家を精神的権威と政治権力が一体化した最高のものと考え、国家に対する絶対的服従を要求する、極端な国家主義。北一輝は1923年に『日本改造法案大綱』を出版して超国家主義を主張し、天皇を絶対とする国家改造を唱えた。

社会民主党(→p.256) 1901年に結成された日本初の社会主義政党。安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らがその中心となった。普通選挙実施、貴族院廃止、軍備全廃、土地・資本の公有、労働者の団結の自由などの政策を掲げたが、結成ののち、直ちに禁止とされた。

『平民新聞』(→p.256) 1903年、幸徳秋水・堺利彦らが設立した平民社の機関誌。週刊新聞として創刊。日露非戦論、社会主義を唱えた。政府の弾圧で1905年に廃刊となった。

無政府主義(アナーキズム)( →p.139、256) 国家、政府、議会など、すべての政治的、社会的権力を否定して、個人の自律性を基礎とする自由な社会の確立をめざす政治・社会思想。幸徳秋水は無政府主義の影響を受けた。

大逆事件(→p.256) 1910年、明治天皇の暗殺を計画したとして、幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者が処罰された事件。秋水を含めて12人が死刑となった。以後、社会主義運動は厳しく弾圧され「冬の時代」を迎えた。

自己本位(→p.258) 夏目漱石の個人主義の根拠となる概念。他者に合わせて生きる他人本位を否定して、主体的に自我を確立していく生き方。

個人主義(→p.258) 夏目漱石は、自己本位に立脚した個人主義を唱えた。漱石の個人主義は自己中心主義とは異なり、他者の存在も尊重するもので、そのために自己のエゴイズムを克服する高い倫理性を求め、義務と責任を伴う。

則天去私(→p.258) 夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした東洋的・宗教的な境地。自我への執着を乗り越える道を、自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの。未完に終わった『明暗』はその実践作とされる。

諦念(レジグナチオン)(→p.259) 軍医(陸軍官僚)と作家という二元的な生活を生きた森鷗外が、『予が立場』(1909年)で語った自らの立場。自我と社会の矛盾に遭遇した時、自己を貫くのではなく、自己の置かれた社会的な立場を冷静に受け入れながらも、なおそこに自己を埋没させまいとする立場。

浪漫(ロマン)主義(→p.260) ロマン主義は、18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパ各地に起こった文学・芸術運動。人間の個性や自我の解放を重んじ、理想の世界を求めて自由に表現することを主張した。日本では明治20年代に文芸雑誌『文学界』の運動として起こり、のちに明星派の詩歌に継承された。

内部生命論(→p.260) 北村透谷が1893年に発表した文芸評論の表題。透谷は肉体的な外部生命に対し、人間独自の精神的な内部生命の存在を主張し、人間の内面的世界(想世界)における自由と幸福を重んじた。

新婦人協会(→p.261) 女性の地位向上をめざして活動した団体。日本の女性解放運動は、岸田俊子や景山(福田)英子らが自由民権運動の中で男女同権を訴えたことに始まる。平塚らいてうは市川房枝らと1920年に新婦人協会を設立し、婦人参政権への道を開いた。

『青鞜』(→p.261) 1911年、平塚らいてうを中心に創刊された女流文芸誌。創刊の辞でらいてうは「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた」と訴え、良妻賢母で従順な嫁であることを求められた、「家制度」の下からの女性解放を求めた。

母性保護論争(→p.261) 1918年に起こった、与謝野晶子と平塚らいてうによる母性保護をめぐる論争。晶子は女性の経済的独立を主張する立場から国家による母性保護を否定し、らいてうは出産・育児は重要な国家事業であるとする見地から国庫による補助を求めた。

大正デモクラシー(→p.262) 第一次護憲運動(1912年)に始まる、大正時代に盛り上がった民主主義・自由主義的風潮。吉野作造の民本主義を理論的支柱とし、政党内閣、普通選挙、軍備縮小などを求める政党・民衆運動が起こった。

民本主義(→p.262) 吉野作造が唱えた思想で、天皇制を認めた上で、政治は世論に従って民衆の利益をはかるべきであるとする。大正デモクラシーを指導した思想であり、普通選挙を基礎とする政党内閣制の理論的根拠となった。