●実存主義(→p.147) 人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場。20世紀を代表する哲学の一つ。資本主義の発展や二度の世界大戦がもたらした社会の変容の中で不安や疎外感を抱いた人々に、主体的な自己を回復する道を示した。サルトルによって、有神論的実存主義と無神論的実存主義に分類されている。
●実存(→p.147) 主体的に生きる人間のあり方。実存(exist ence)はexistere(外へex+立ちいでるsistere)というラテン語に由来し、日常の中に埋没した自己を超え出て、個人としての主体性を回復するという意味を含んでいる。
●主体的真理(→p.148) キルケゴールが求めた「それのために生き、そして死にたいと思うような」真理。ヘーゲルがその哲学において求めた客観的で普遍的な真理に対立する概念で、実存に生きる主体が求める自分自身にとっての真理をいう。
●美的実存(→p.148) 刹那的な快楽を「あれも、これも」と追い求める生き方。美的実存が目的とする美や恋愛のような享楽は移ろいやすく、倦怠と退屈をもたらし、絶望に陥らざるをえない。
●倫理的実存(→p.148) 結婚と職業生活を自らの義務として選択し、「あれか、これか」と選択肢の中から善の選択を責任を持って果たそうとする倫理的な生き方。しかし、この段階も人間が不完全であり欠陥を持つ存在である限り、普遍的な倫理に従うことはできず、絶望に陥る。キルケゴールは、魂の奥底に暗い不安を持っているがゆえに、倫理的実存の生き方を選択できない者を例外者と呼び、著書『あれか、これか』の中で自らを例外者として描いた。
●宗教的実存(→p.148) 普遍的倫理に完全に従うことができないという絶望と不安を超えて信仰に飛躍し、ただ一人の単独者として神と向き合う生き方。キルケゴールは、息子を殺してささげよという神の命令に従い、神のために子殺しという倫理に反する行為を行おうとしたアブラハムの信仰の中にこそ、単独者として神との間に絶対的な関係を築こうとする宗教的実存の姿があるという。
●「神は死んだ」(→p.150) ニーチェが、天上の価値を説くキリスト教と、イデアの世界や魂の価値を説くプラトン主義の真理が無根拠であることを表して、著書『ツァラトゥストラはこう言った』の中で用いた言葉。「神の死」の宣言は、ヨーロッパに存在した最高価値の喪失としての、ニヒリズムの宣言である。
●ニヒリズム(nihilism、虚無主義)(→p.150) あらゆる既成の宗教的・道徳的・政治的権威や社会的秩序を否定する立場のこと。ニーチェは、ニヒリズムには精神の衰退と後退としての受動的ニヒリズムと、精神の上昇としての能動的ニヒリズムの両面があると説き、能動的ニヒリズムを重視した。
●ルサンチマン(怨み、ressentiment)(→p.150) 弱者が強者に対して持つ怨恨、復讐感情。弱者は、従順や平等、愛や平和などを尊ぶべき価値とする。しかし、この世における実際の強者はそれらに従っていないのだから、いずれ報いを受けると考えて復讐感情を満足させ、溜飲を下げる。ニーチェによれば、キリスト教の道徳はルサンチマンに由来する奴隷道徳であり、それは弱者が天国で力を持つ強者になりたいがための自己正当化でしかない。
●超人(→p.151) 天国やイデア界など、どこか別の彼岸の価値に希望を持つのではなく、大地に根ざし、人間の卑小さを絶えず克服しながら、力への意志に基づいて新しい価値を創造する存在。ニーチェの理想とする人間像。
●力への意志(→p.151) ニーチェの語る生の本質。「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする」意欲。ニーチェは「力への意志」の自覚の徹底によって受動的ニヒリズムを克服できると考えた。
●永劫回帰(→p.151) 世界の出来事と歴史のすべては目的もなく無限に繰り返される、というニーチェの思想。唯一の実在は、生成としての自然であり、生の唯一の原理は「力への意志」であるとされる。
●運命愛(→p.151) 永劫回帰の世界において、無意味な繰り返しを苦痛として退けるのではなく、「これが生だったのか。よし。もう一度」と肯定的に決断する生き方。
●限界状況(→p.152) ヤスパースの言う、人間の直面する自分の力では逃れることのできない絶望的な状況のこと。具体的には、①死、②苦悩、③争い、④罪責の4つがあげられる。
●超越者(→p.152) 限界状況の中で絶望と挫折を直視する時、自己の有限性に気づいた実存が自己の存在の根拠としようとするもの。神の哲学的表現。超越者は自らを暗号として自己開示するため、実存にとって世界は解読すべき暗号となる。
●実存的交わり(→p.153) 客観的に対象化されない自由な存在同士の交わり。実存的交わりにおいては、互いの存在のあり方が問われ、時には弁護だけでなく攻撃が交わされることもある。このような関係を、ヤスパースは愛しながらの戦いと表現している。
●現存在(ダーザイン、Dasein)(→p.154、155) ハイデガーは人間を、存在作用(ザイン)の場(ダー)になっているという意味で現存在(ダーザイン)と呼び、「現存在が存在を了解するときにのみ、存在はある」ととらえた。つまり、人間がどのように存在を了解しているかを問うことによって、存在ということの意味を明らかにできると考えた。
●被投性(→p.154) 人間が事物や他者と関わる中で、自らがあらかじめ世界の中に投げ出されていることを見いだすこと。ハイデガーは現存在のあり方を世界-内-存在と規定したが、この世界は現存在である人が作り出したわけではなく、気がついたら人は世界に投げ出され、そこに取り込まれているという。
●ひと(世人、ダス・マン、das Man)(→p.154、155) 不特定多数の顔のない他者を表すハイデガーの造語。具体的な「このひと」でもなければ「あのひと」でもなく、「そのひと自身」でもなく、「幾人かのひと」でもなければ、また、「すべての人々の総計」でもない「誰か」。このような自己のあり方を頽落という。
●死への存在(→p.155) ハイデガーが、人間は皆、いずれ死ぬ存在であることに注目して用いた言葉。人間は自身が死への存在であることに向き合うこと(死への先駆)で、頽落から引き離され、本来的な自己を生きることができるとし、これを先駆的決意性と呼んだ。
●投企(→p.156) 自己を実現するために、自分自身を未来の可能性に向けて投げ出す人間のあり方。企投と訳されることもあり、ハイデガーやサルトルによって用いられた。
●「実存は本質に先立つ」(→p.156) 人間はまず先に実存し、世界の中に姿を現した後で、自己の本質が定義されるということ。サルトルが、人間のあり方を表して用いた言葉。サルトルは無神論的実存主義の立場に立つため、人間の本質を考える神が存在しないのだから、生まれながらの人間の本質などないと主張する。
●対自存在・即自存在(→p.156) サルトルが存在を区別して用いた言葉。
即自存在:それ自体で存在する単なる事物のあり方
対自存在:未来の可能性に向け、常に現在の自分から逃れ出る脱自的な人間のあり方
●アンガージュマン(engagement)(→p.156、157) 「社会参加」「自己拘束」「束縛」などと訳される。どんな場面でも人は自由に行動を選択して社会と関わっており、自由に選択した以上、自分の行動に責任を負わなければならないという、人間のあり方に対するサルトルの考え方。
●「人間は自由の刑に処せられている」(→p.157) 人間の自由に伴う責任の重さを刑に例えたサルトルの言葉。アンガージュマンにおいては、自分の選択によって人類全体に影響が及ぶとされる。
●不条理(→p.158) カミュは、何の根拠もなく偶然に存在しているこの世界に対して、人生の意味や価値を見いだそうとする時に生じる状況を不条理と名づけた。この不条理な運命に向き合い続けることを反抗と呼び、反抗を通して連帯する人々の姿を描いた。
●フェミニズム(→p.158、171) 男女同権主義の前提に立ち、女性にとって不利益をもたらす社会制度の是正や女性差別の撤廃を求める女性解放の思想や社会運動をいう。
●プラグマティズム(pragmatism)(→p.159) アメリカの開拓者的・実験的な精神風土を反映した哲学。実用主義とも訳される。観念を行為(ギリシア語でpragma)との関連の中でとらえる。ヨーロッパ哲学の形而上学的な伝統を廃し、実践的な知性の活動をめざす思想運動。パースによって提唱された。
●真理の有用性(→p.160) その観念を信じることによって得られる様々な結果が有用な限りにおいて、観念は真理であるとするジェームズの真理観。例えば神や地獄の存在など、実験で検証できない宗教上の観念であっても、それを信じることが有益であるなら、その限りにおいてその観念は真理であるという。
●道具主義(→p.160) 人間の思考や知性を、人間がよりよくその環境に適応し、よりよい生活を営むための道具であるとする、デューイの考え方。知性を生活に役立つものとして、実践的にとらえた。
●進歩主義教育運動(→p.161) デューイによる、児童中心の経験主義教育の方法と、教育を社会の進歩と改革の基本的手段ととらえる教育観を合わせて進歩主義教育という。デューイは新しい教育哲学を確立して、アメリカのみならず、日本をはじめ世界の教育に影響を与えた。