●ドイツ観念論(→p.120) カント以後、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルに至る、ドイツで展開した哲学の潮流。観念論とは、idealismの訳語で、この世界にあるものは観念に裏づけられて存在しているとする考え方。理性や理念、理想を追究する性格が強い。
●批判哲学(→p.121) 理性の能力を批判的に検討することを主題とするカントの哲学。『純粋理性批判』は、理性の能力を越えているにもかかわらず、理性がどうしても問わざるをえない課題(神の存在や道徳の問題、世界の始まりなど)があるということから出発し、人間の認識能力を批判的に分析する。
●コペルニクス的転回(→p.121) カントが自らの考える認識論について、それまでの認識論との違いを天文学になぞらえて用いた言葉。カント以前は通常、主観が対象に従う形で認識が成立すると考えられてきた。しかし、カントは主観が持つ先天的(ア・プリオリ)な形式(時間や空間、原因-結果などの思考の形式)が現象としての対象にあてはめられ、認識が成立すると考えた。それを、コペルニクスによる天動説から地動説への転回になぞらえて、コペルニクス的転回と呼んだ。
●理論理性(→p.121) カントの言う、人間が現象としての対象を認識する時に働く理性。悟性とも呼ばれる。感性に与えられた直観(視覚や聴覚など)に対し、思考の形式(原因─ 結果など)をあてはめて対象を認識する。理論理性がさらに経験を越えた全体的な認識、経験できないもの(世界の始まりなど)を認識しようとすることもあるが、その時、理論理性は経験の領域を超えて純粋になり、判断が二律背反(アンチノミー)に陥るため、理論理性は経験の領域にとどまるべきだという。
●実践理性(→p.121) 善悪の判断をする理性をさす。カントは、理論理性が経験の領域にとどまるべきであったのに対し、実践理性はむしろ純粋であるべきであるとする。経験の領域を離れて、実践理性は道徳法則に基づいて善悪を判断できるとカントは考える。
●道徳法則(→p.122) いつでもどこでも誰に対しても妥当する、善悪を指定する法則。定言命法の形で表される。自然法則とは異なり、従うか否かを選択できるため、選択を可能にする自由な意志を前提とする。この法則自体が実践理性によって立てられる。
●定言命法(→p.122) 「~せよ」という、道徳法則を表現する場合の形。普遍的にあてはまるものであるため、誰に対しても常に無条件に「~せよ」と命じるものである。いくつかの方式があるが、基本の形は「あなたの意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」である。
●仮言命法(→p.122) 「もし…ならば~せよ」という条件つきの命令。「大学に合格したければ勉強せよ」は仮言命法である。条件(大学に合格する)を目的としない人には妥当しないため、道徳法則にはなりえない。
●格率(→p.122) 個人の行為の主観的な原理。道徳法則とは違い、特定の個人にだけあてはまる。ある個人が生活上こうしようと考え、自己に課している原則。例えば、早朝の方が学習がはかどると考え、早起きを自己に課すこと。
●善意志(→p.122) 義務である道徳法則に従ってよいことを行おうとする意志。カントは、無条件に善であるといえるものは、善意志のみであるという。他のよいものは、意志次第で、場合によっては悪いものになりうる。なお、外部からの規制などによって何かをする時に働く意志は選択意志と呼ばれ、善意志とは区別される。
●人格(→p.122) personの訳語。カントは、自由な意志と理性を持つ個々の人をさしてこの言葉を用いた。道徳法則に従って行為する道徳の主体である。
●自律(→p.122) カントは、実践理性が立てた道徳法則に主体的に従うことが意志の自律であり、それこそが道徳的であると考えた。人間が「親や教師が言うから」あるいは「聖書や経典に書いてあるから」としてある行為をするのは他律であり、カントの立場からは道徳的とはみなされない。
●目的の国(→p.122) カントが理想として主張した、人々が互いに目的として尊重し合う社会のあり方。定言命法の一つ、「自分の場合であれ、他人の場合であれ、人格の内にある人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱うことのないよう行為せよ」から導かれる。
●動機主義(→p.123) 行為の結果ではなく、動機を重視する考え方。カントは行為の動機が善であることを重視し、動機は不純だが結果的には道徳法則にかなう行為(異性にもてたいから優しくするなど)を適法性の行為と呼び、純粋に善なる動機による行為と区別した。
●絶対精神(→p.125) ヘーゲルの哲学の中心的な考え方。絶対精神とは、個人の精神ではなく、自然や人間の背後にあって、それらを突き動かしている絶対者。その本質は自由であり、自分自身を自分自身でないものに変えたりしながら(自己外化)、人類の自由の実現をめざす。絶対精神が自由を実現する手段として、一個人の情熱を利用して自由実現のための働きをさせる理性の狡知がある。
●弁証法(→p.126) 本来はソクラテスの問答法を意味し、複数の人間が議論する過程で認識が深まるあり方を意味した。ヘーゲルはそれを、認識のみならず、存在や歴史などのすべてのものにおいて働く論理あるいは法則ととらえた。ある命題(テーゼ、正)が主張されると、その後それを否定しそれと対立する命題(アンチテーゼ、反)が現れる。そして最後にテーゼとアンチテーゼが互いに保存されながらより高い次元に総合され、新たな命題(ジンテーゼ、合)となる(アウフヘーベン、止揚)。
●アウフヘーベン(止揚)(→p.126) ヘーゲルの弁証法における用語。本来、アウフヘーベンには、否定と保存という意味がある。ヘーゲルは、否定されたものが消え去ってしまうのではなく保存され、総合される際に一定の回復をみることを、この言葉で表現した。
●人倫(→p.126) 主観的・内面的な道徳と、客観的・外面的な法が総合・統一されたものをさして、ヘーゲルが用いた言葉。具体的には共同体やそのあり方を意味する。家族は愛を中心とした人倫の出発点であり、市民社会の中で家族的なあり方は否定されるが、その矛盾は国家という人倫で克服されるという。