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特集@ ソクラテスの哲学実践を「倫理」授業へ導入する
  ―「哲学対話」の授業実践―
福島県立福島商業高等学校教諭 渡部 純
はじめに      結びにかえて 参照
はじめに

 「倫理」の授業においてプラトンの思想を扱うのは,筆者にとって常に躓きの石である。とりわけ,「哲人政治」に対する生徒たちの反応には考え込まされることが多い。

 言うまでもなく,「哲人政治」は真理に目を開いた哲学者による独裁政治を理想とする考え方であるが,それを支持する生徒の数は少なくない。ただし,私がとまどいを覚えるのはその数に対してではない。むしろ,その理由として「政治は『頭のよい人たち』が行うものであり,自分たちはそれに関与すべきではない」と答える生徒たちの諦念に対してである。もし,この意識が政治的無力感に結びついているとすれば,プラトン思想の授業での扱い方を根本から見直さなければならないだろう。

 プラトンの政治思想をめぐっては,その時代時代において毀誉褒貶がくり返され,しばしば誤解や表層的な解釈にさらされてきた。だが,その危うさを踏まえた上でなお,高校という教育現場に立つ者として,プラトン思想が生徒たちにどのように受容されるのかという視点から授業実践を変奏することは許されるだろう。そして,筆者はその変奏の手がかりとなるのは,「ソクラテスからプラトンへ」と発展史として読むのではなく,むしろ「プラトンからソクラテスへ」と捉え直すことではないかと考えている。以下は,こうした問題関心から取り組んだ授業実践をめぐっての雑考である。


1.高校生たちはプラトンをどう読んだか

 プラトンの「哲人政治」を諦念とともに支持する生徒が少なくないと述べた。まずは,筆者の授業において,プラトン思想が彼・彼女らにどのように受容されたかを見てみよう。

 たとえば,第一学習社『高等学校 倫理』では「ソクラテスの説いた『よく生きる』ことを実現するには,一人ひとりが真の知をめざして努力するだけでは不可能である。事実,ソクラテス自身は知を求めながらも,国家の手で処刑されたのである。そこで,『よく生きる』ことが可能となるためには,国家の全体も,調和と秩序をそなえた正しい(正義にかなった)ものでなければならない,とプラトンは考えた」と記述されている。そして,「この哲人政治の思想は,ソクラテスの理想を受けつぎつつ,それに政治をも変革するような実践的な力をあたえるものであった」とまとめられている。

 この中でもとりわけ生徒たちが同意を示すのは,「よく生きる」ことの実現は,「一人ひとりが真の知をめざして努力するだけでは不可能である」という部分である。その記述をめぐって彼・彼女らが考えた授業レポートの一部を紹介してみよう。


 「市民それぞれが自分に合った階級に従事する方がよいと思う。一人ひとりの話を聞いて,本質を見極めるのは無理がある。自分に合ったことをする方が,本人にとってもよいだろうし,社会全体の調和がとれる。」

 「全員が同じような知をもつことは不可能だし,結局その知の基準も誰かを中心に決めることになります。」

 「できる人とできない人が一緒になって同じことをしたら差が生まれるに決まっているのだから,そんな中で安心感なんてもてるのだろうか。高校に比べ,中学は能力の差が大きく,劣等感や不安感があったが,高校だと能力が大体同じような人たちなので,中学と比べなんとなく安心感があると私は感じる。(だからプラトンの階級国家も悪くはない)。」


 これらの記述には,プラトン思想に対する肯定と彼・彼女らの現実に対する諦念とが入り混じっている。さらに言えば,それには「知」に対して能力主義的な劣等感を伴いながら,他者との共有を図ることは困難であるとの理解が示されている。そのことを「ソクラテスのように,多様な意見を問答法によって統一すると,皆ほぼ同じような人格になり,個性を失わせる」と記述した生徒もいる。もちろん,プラトンの哲学上の「知」と生徒たちが日常接する学校知とを混同するわけにはいかない。にもかかわらず,生徒たちにとって「知」とは,特定の人間にしかもちえない排他的で抑圧的なものというイメージがあることは,ひとまず押さえておく必要があるだろう。

 実は,これらの記述は8年前の授業で生徒が書いたものである。だが,その後もなお同様の記述を目にすることに変わりはなく,その点でいささかも古びてはいないと感じている。もちろん,数としては「哲人政治」の思想を批判的に捉える意見の方が多数を占める。だが,そうした意見であっても「理想はソクラテスだが,現実はプラトンだ」とする記述が目立つ。その点で,能力主義的に規定された生徒たちの現実をなぞるものとして,プラトン思想が受容されている様子が窺われる。そうした中にあって次の記述は印象深いものであった。


 「高校生になってから“ 平等” という言葉に敏感になった。できる人とできない人に分けること,頭のよい人と悪い人に分けること,本当にこのことについて考えた。しかし,今は仕方ないと思ってしまう自分がいて,もうどうにもならないと思い,考えても無駄だと思うこともある。ソクラテスのような考えをもった人たちの集まった世界を経験したいです!」


 この「ソクラテスのような考えをもった人たちの集まった世界」とは何か。そのことが「プラトンからソクラテスへ」という視点で授業に取り組む端緒となる。


2.「ソクラテスの死」をどう読むか

 ソクラテスについては,彼が自らの思想について何も書き残していないため,弟子のプラトンの著書を中心に解釈されてきた。すると,ここにはプラトンが記述するソクラテスとプラトン自身の思想とが截然と区別されるのかという難問が生じるのだが,教科書上において両者は一応区別されている。ここで注目したいのは,ソクラテスが市民とともに真理を探求したのに対し,プラトンは真理を観照できるのは哲学者だけであるとした点である。ここには両者の対照的な思想が見て取れるが,そこには「ソクラテスの死」をきっかけとしたプラトンの「哲人政治」への転回があったと考えられる。そして,この出来事をいかに解釈するかが,上述の生徒の意識との関連で重要な意味を与えてくれる。

 教科書において「ソクラテスの死」は,裁判で死刑判決が下されたソクラテスが,逃亡のチャンスもあったにもかかわらず,「なぜ死を選んだのか」という視点から記述されるのが一般である。この出来事をめぐっては,なぜ不当な判決に服従することが「よく生きること」なのかという問いから,ソクラテスの思想と生きざまを考察させることがオーソドックスな授業展開であろう。しかし,筆者はここにプラトンの転回の意味を明確にするために,さらに「なぜソクラテスは殺されたのか」という視点を加えることにしている。

 この視点を加えるためには,プラトンが「ソクラテス裁判」によって政治に絶望した事情を述べながら,「哲人政治」の必然性を論じる『第七書簡』にふれる必要があるだろう。アーレントによれば,このプラトンの絶望はソクラテスが都市の民衆の説得に失敗したことで,哲学者にとって都市が安全ではないということが明らかになったことに起因する。ここでプラトンが敵視したのが,民衆の忘れっぽくうつろいやすいドクサ(思いなし,偏見,意見)である。つまり,哲学者による真理の省察も,ひとたび市井に提示するや否や一つのドクサに紛れ込んでしまうがゆえに,ソクラテスは民衆に殺され,その思想は忘却にさらされてしまった。ここに哲学と政治の対立が始まるわけだが,これに対してプラトンは真理の圧政によって,その解決を図ろうとしたというのがアーレントの見立てである。

 こうしたプラトンの政治に対する絶望は,『国家』の「洞窟の比喩」にも示されている。一般に「倫理」の教科書においてこの比喩は,哲学者がペリアゴーゲー(魂全体の向け換え)によって「善のイデア」を見て取るところで記述は終わる。しかし,実はこの比喩は,最終的にイデアを見て取った囚人が洞窟に戻り,その光に目を向けない囚人仲間を解放して上の方へ連れて行こうとして,彼らに殺されてしまうという結末で終わっている。殺された囚人が哲学者であり,ソクラテスであることは言うまでもない。ここに,無知蒙昧な民衆に哲学者が殺された問題の深刻さと,哲学者が殺されないための政治のあり方を模索したプラトン思想の背景が読み取れよう。

 では,現代を生きるわれわれもまた,このプラトンの政治への絶望を共有すべきなのだろうか。なるほど,世界中で熱狂的な排外主義が吹き荒れ,反知性主義による民主主義の危機が叫ばれている。20 世紀のファシズムの経験をふり返ってみても,今日もなお民主主義に対して楽観的ではいられないのも事実である。それでもなおプラトンとともに問うべきなのは,民主政の自由を憎み,真理に開かれる「知」は特殊な人間に限られるのだと居直るのではなく,他者との協同において「知」が真理に向けて無限に開いていく可能性がありうるのかを探求してみることではないか。そのことがこれらの現実に抗うための条件であり,教育に携わる者としてそれをあきらめるわけにはいかないのである。


3.プラトンからソクラテスへ

 では,他者との協同において無限に開いていく「知」とはどのようなものか。そのことを探求する手がかりこそが,まさにソクラテスの哲学実践を読み直すことである。

 プラトンの前期対話篇は中期・後期対話篇よりもソクラテス的要素の色合いが強いとされる。そして,そこではソクラテスが他者との対話的協同に基づく「知」を強調していることが確認される。たとえば,『ソクラテスの弁明』では,次のような文がある。


 人間にとっては,徳その他のことについて毎日談論するという,このことが,まさに最大の善きことなのであって,わたしがそれらについて問答しながら自分と他人を吟味しているのを諸君は聞かれているわけであるが,これに反して,吟味のない生活というものは人間の生きる生活ではないと言っても,わたしがこう言うのを諸君はなおさら信じないであろう。しかしそのことは,まさにわたしの言うとおりなのです,諸君。ただ,それを信じさせることが容易でないのです


 ここでソクラテスは沈黙などしてはおられず,市民とともに毎日談論することがまさに「最大の善きこと」だとしている。なるほど,哲学的真理の神秘性に達することができるのは哲学者だけかもしれない。だが,そこに達することができることと,そこへ向けて探求する過程やその権利に開かれていることとは別である。

 カントは,人間の理性が神や自由,不死に対して究極の問いを立てるにもかかわらず,その確実な認識をもつことはできない不条理を「理性のスキャンダル」といった。しかし,カントによれば,こうした問いに対して「認識する」ことはできないが,「思考する」ことはできる。死とは何か,人間は自由なのか。こう問わずにはいられない問いのとば口に立つとき,誰しも「思考する」という意味での哲学の権利に開かれている。ソクラテスが,市民と談論しながら自分と他者を吟味する生こそが人間として生きる生活だとしたのは,こうした意味においてのことではないか。つまり,「よく生きる」とは真理へ向けて他者とともに吟味し,思考する過程それ自体のことだということである。

 再びアーレントによれば,ソクラテスの哲学実践とは,問答法(助産術)によって市民一人ひとりに自分のドクサの中にある内在的真理を発見させることであった。彼はけっして哲学的真理を教えようとしたわけではない。彼は無知の眠りに浸る市民を刺激する「アブ」として,ともに無知を自覚する経験を喜んだ。だが,彼はけっして相対主義を主張したわけではない。むしろ,問答によってアポリア(行きづまり)に陥ったすぐそばから,自分も知らない真理を目指してともに言論に基づく探求を常に説くのがソクラテスその人であった。

 そして同時に,彼は市民一人ひとりが真理にあふれていくことが都市国家のためであるとも考えていた。アーレントによれば,このソクラテスの実践は市民を友人に仕立て上げるために為されたのであり,公共世界はその友情による理解の上に構成されるものであった。これは単に他者との友情だけを意味しない。思考という,もう一人の自分との対話を可能にする自分自身との友情経験こそが「よく生きる」ために最も大切なことだというのが,アーレントがソクラテスの実践に見出した重要な点であった。

 これがプラトンの「哲人政治」と対極をなすものであることは言うまでもないだろう。もちろん,こうしたアーレントの解釈は独特のものである。それでも冒頭に掲げた課題意識をもつ筆者からすれば,自分自身に対して誠実に生きることと他者との協同に開かれた「知」を探求する上で大いに示唆に富むものである。


4.ソクラテスの哲学実践を授業へ導入する  ―「哲学対話」の授業実践

 以上では,冒頭及び1で提起した課題に応えるためのソクラテス―プラトン解釈について述べてきた。この視点で展開した授業実践のすべてをここで紹介する余裕はないが,以下,上述のソクラテス解釈を踏まえて導入した「哲学対話」の授業実践について,若干の紹介をすることで本稿を結びたい

 「哲学対話」の授業は,一つの哲学的テーマ(「幸福とは何か」や「人間は自由か」など)について生徒たちが自ら自由に考え,お互いの対話を通じて思考を深めることを目的とした実践である。そこで生徒たちはテーマについてひたすら思考と発言,発問,傾聴,応答に終始し,全体として一つの結論に集約していくことはめったにない。

 哲学的なテーマの利点としては身近なテーマを設定できるため,知識の多寡や学力の優劣によらずに個々の経験をもとにして誰もが語り合うことができる点が挙げられる。そこにおいて授業者は対話を促すために問いかけることはあるが,司会に徹して自らの答えを示すことはほとんどない。対話上のルールはシンプルであり,@お互いに対等な立場で話し合う,A聞くときは最後まで聞き,話すときはわかりやすくまとめる,B独白の応酬ではなく対話となるように努力する,の三つである。

 まず授業開始時は,海外で哲学的対話に取り組む様子を映したドキュメンタリー映像の一部を視聴し,「哲学対話」のイメージをつかむところから始める。その上で,「哲学対話」に入る段階では,まず相手の考えに対して問いを投げかけ,答えを引き出す問答法を学ぶ時間を設ける。この導入の背景には,「哲学対話」の授業に取り組み始めたばかりの頃,生徒同士がお互いの意見に共感ばかりして対話が成り立たない失敗の経験がある。しかし,問答法の実践をくり返すうちに,しだいに生徒たちは質問という形式が共感でも批判でもなく,互いに距離の取れた対話関係を築く方法であることに気づいていく様子が窺えた。

 とはいえ,1クラス40 名で一斉に「哲学対話」を行うのは無理がある。そのため実践の初期段階では,授業前半は 3 〜 4 名程度のグループによる「哲学対話」を取り組ませ,後半はその議論を踏まえたクラス全体での対話を行わせることをくり返した。さらに,対話に参加するグループとそれを観察して評価するグループとに分けてみる方法も実践した。そこでは対話を観察しながら「自分だったらこう発言する」や,「どんな発言が鋭いか」など観察者として思考が深まる様子も窺え,必ずしも対話に参加することだけが思考を促すわけではないことも確認された。

 このような対話型の授業をくり返すことで生徒の側もその対話の作法や仕方を身につけるようになり,終盤期の授業実践では小グループに分けずに,はじめから全体で自由に語り合うことが可能になった。

 では,「哲学対話」の授業で生徒たちは何を学んだのか。授業後のレポートからは,生徒の多くが対話型の授業がとても新鮮だったという感想をもつことが確認された。中には,考えることは苦手で「『倫理』の授業は頭が痛くなる」という感想をもつ生徒も若干存在したが,ふだん一緒に過ごしているクラスメイトが思いもしない考えをもっていることを知ることで,人の考え方の多様性に驚いたという感想が目立った。さらに,他者との対話や,経験した出来事に向き合うことで,自分自身とも向き合い「考える」という営みをはじめて自覚的に行うことができたという感想や,他者に受け止められる経験によって思考が変容することに魅力を感じるという感想をもつ生徒も少なくないことが確認された。

 これらのレポートからは,他者との対話による思考の深化を求めたソクラテスの哲学実践について,生徒たちが経験的に理解を深めた様子が窺える。そして,この他者の言葉によって思考が持続し,変容していくという経験の積み重ねが,自ずと社会を変えることに通じる政治観に転換していくものと期することもできるのではないか。

 もちろん,「哲学対話」の授業を実践する上での課題もある。しばしば「哲学対話」の授業に対しては,参観した教員から「この授業で生徒は何を学んだのか」や「評価はどうするのか」といった指摘がなされてきた。計画的に設計される授業実践と異なり,生徒たちの対話の自由に任せる「哲学対話」の授業は,単なる「お喋り」の時間にも見紛われる。また,それゆえに何を評価の基準にすべきなのか曖昧であることも指摘される。これらは「哲学対話」の授業に取り組む実践者に共通する課題でもあり,様々な実践例で工夫がなされている。だが,これらの指摘は裏を返せば,「哲学対話」が既存の授業形式や評価方法では汲み取れない新しい学びの形を提起していることを示すものとも考えられる。それについてここでは詳論を述べる準備もなく,今後の課題として積み残しておきたい。


5.「哲学対話」の授業実践記録

 最後にこれまで筆者が取り組んできた「哲学対話」授業の年間スケジュールと実践例を簡単に紹介しておく。


(1)1年間のスケジュール

第1回(5月) 「哲学対話」の授業についてのガイダンス

 @ 海外の「哲学対話」授業のドキュメンタリー映像を視聴して哲学的対話のイメージをつかむ。(30分)

 A 「哲学対話」の授業(目的,方法)についての説明。(20分)

第2回(第1回と連続授業) 問答法を鍛える授業

 @ テーマに即して授業者が問答の例を挙げながら実演をする。(10分)

 A 小グループに分かれ,お互いの考え方に対して問答を行う。(20分)

 B 全体で授業者とのあいだで問答を行う。(20分)

 C 各自の自己評価をワークシートに記入する。(5分)

第3回(6月)・第4回(7月) 「哲学対話」の授業

 @ テーマに対する自分の考えをワークシートに記入する。(5分)

 A 小グループに分かれ,お互いの考え方に対して問答をくり返す。(20分)

 B 全体で授業者とのあいだで問答を行う。(20分)

 C 各自の自己評価をワークシートに記入する。(5分)

第5回(10月)・第6回(連続2時間) 対話参加者と観察者とに分けた「哲学対話」の授業

 @ 対話参加者(20名):テーマについて議論する。

    観察者(20名):ワークシートに発言者の記録と評価をつける。(40分)

 A 各自の自己評価表をまとめる。(5分)

第7回(12月)・第8回(1月) 

 @ テーマに対する自分の考えをワークシートに記入する。(5分)

 A テーマについてクラス全体で「哲学対話」を行う。(40分)

 B 自己評価・対話に関する評価・テーマについて考えをまとめる。(5分)


(2)これまで取り組んだ「哲学対話」の実践例

@ 「よい国家とは―ソクラテスかプラトンか」

 ⇒よい国家とは,市民一人ひとりが「知」に目覚めていくことで実現されるのか,ただ一人真理を認識できる哲学者が統治することで実現されるのかについて考える。

A 「幸福とは何か?」

 ⇒「サイのおくさんとドレス」(A.ローベル著『ローベルおじさんのどうぶつものがたり』所収)を読み,「幸福」とは何かについて考える。古代から近代の哲学史における幸福概念を考える手がかりにする。

B 「リアルとは何か?」

 ⇒デカルト及び脳死臓器移植と関連させながら意識とリアルについて考える。

C 「自己決定=自由か? ―自律とは何か」

 ⇒カントの自律としての自由からJ.S.ミルの自由論と関連させて考える。

D 「人間は自由か?」/「自由とわがままは違うのか?」

E 「出生前診断は生命の選別か?」

 ⇒生命倫理における優生思想の問題点を学びながら,出生前診断に関する資料をもとに考える。

F 「責任とは何か?」

 ⇒『僕のお父さんは東電の社員です』(毎日小学生新聞編+森達也著)を読み,原発事故の責任について考える。


(3)実際の授業記録―テーマ「人間は自由か?」

※ S =生徒,T =授業者

S@:人間は自由です。

T:なぜ?

S@:食べたいときに食べて,寝たいときに寝られるし,仕事も選べるからです。

T:「選べる」,「できる」というのがキーワードですね。それをもって自由と言える?

SA:職業選択って,あまり自由じゃないと思う。

T:ほう,なぜ?

SA:極端な話ですけど,私が弁護士になりたいと言っても,頭のよさが足りないから,今の段階では無理だし,進学とかでもお金がたくさんあれば国公立の4年制に行けるかもしれないけれど,頭がよくなかったら私立の短大とかに行くしかないし,奨学金とか必要になるからあまり自由と言えないんじゃないかな。

T:なるほど,選べるというのが自由じゃないかという意見に対して,能力の差があって経済の問題があるのに,それがなぜ自由だと言えるのだ,ということですね。

SB:反論していいかな。

T:いいですよ。

SB:その能力の問題っていうけれど,それを不自由にしたのは自分であって,勉強すれば頭はよくなるじゃないですか。能力の問題というんだったら,努力すればいい話で,努力をしないのは自分のせいだから。

T:経済の問題はどう?

SB:経済だって仕事を選べるくらいの能力を持てれば上の方にどんどん行けるんだし,社長にだってなれるし,能力の問題は自分で不自由にしただけであって,経済の問題もそうだと思います。

(ざわつく)

T:じゃ,人間は自由なの?

SB:人間は自由な存在です。だって,みんな毎日楽しいじゃないですか。法律があって,法律っていうのは,やってはいけないことを最低限決めているんであって,たとえば,先生に反抗した場合,「じゃあ先生は生徒を殺します」ってなったらそれはだめじゃないですか。

T:だめですね。でも,みんな毎日楽しいっていう話とどうつながるの?

SB:だから,法律がなければ世の中っていうのは秩序が乱れてしまって,毎日楽しい生活がなくなってしまうじゃないですか,それよりはちゃんとした法律があって,楽しい暮らしができた方がみんな自由なんじゃないかな。

T:なるほど,ということは,今の意見をまとめると,人間は毎日楽しく暮らしているから自由だと言えるのだけれど,それは法があるからだということですね。

SA:なんか,法がなければ自由がなくなるというのは,すごく賛成できるんだけれど,前回の授業(※「自由とわがままは違うのか?」をテーマにした授業)で話に上がったように,法があるから不自由なんだと思うんです。たとえば,人を殺したいとか,何かを盗みたいと思う人もいますよね。でも,大部分の人がそれをしないのは,法に縛られたり,自分の持っている理性に縛られたりする不自由,そう思ってもできない不自由がある。だから,なんて言うか,そこは自由じゃないんじゃないかな。

S@:今の意見に反論なんですけど,人を殺したいとか,盗みたいという自由が縛られているだけで不自由だと言っているんですけれど,それが不自由なだけでは人間全体が不自由だと言えないんじゃないか。そうしたことだけが不自由なだけで,人間全体が自由じゃないと言えるのか,ということです。

T:今の意見の意味はわかった?

SC:ん〜?わからない…

T:わからない人が一人でもいれば,ここはもうちょっと説明してもらおう。

SD:法律に縛られている人は不自由かもしれないけれど,それに苦痛を感じていない人は自由なわけであって,それだったら人間全体が不自由だとは言えないんじゃないか,とS@君は言いたいのだと思います。

T:今の議論を整理すると,人を殺したいという自由を持っている人にとって法は不自由に感じるけれど,大多数の人が別に法を守ることに苦痛を覚えていないのであれば,それは自由だと感じているんじゃないか,ということですね。法や理性に抵抗感を覚えている人だけをもって人間は不自由だと言えないんじゃないか,ということですね。違う観点からの意見でもいいですよ。

SE:不自由か自由かという問いが…なんか…。私はとりあえず自由か不自由かという真ん中くらいなんですよ…自由か不自由かを感じるのは自分の中にしかなくて,だから人間が自由かという問いが間違っている。

T:すばらしい!問いを問い直すなんて!

SE:自由か不自由かの境界線は自分の中にしかないのかなと思っています。

T:自由かどうかは個人の中にしかないんだから,人間全体の自由を問うのは間違っているということですが,皆さんはどうですか?

SF:賛成。

T:じゃあ,自由の問題はどう問い直せばいいんですか?

SG:「あなたは自由ですか?」

(ざわつく)

T:これなら自由の本質が見えそうですか?ちょっと違う?

SH:(人それぞれ自由に対する)価値観が違うからダメ。

S@:「人間は客観的に自由なのか?」

(かなりざわつく)

SB:誰か一人のことを言うのではなく,世の中全体のことを客観的,全体的に見てみる。

SI:それじゃ,最初の問いと同じじゃん。

T:いいよ。問いを壊して元の問いに戻るのもありだよ。

SB:主観的に自分はこうだというのは誰だってできるし,誰だってわかることだから,それを周りから見てどうなのだということを問わなければいけないと思う。

T:それでやってみる?

S複数:やってみよう!

T:よし!じゃあ,あらためて聞こう!人間は客観的に見て,全体的に見て自由なのか!?

SJ:それこそ,その人の価値観で終わっちゃうよね。

T:じゃあ,その人の価値観でいいから,「私は自由に見える」でもいいよ。でも,皆で共有している「人間」や「自由」という対象は同じだよね。同じ対象を見ていながら,なぜ「その価値観がずれているのか」,その根っこを見てみようよ。

SK:生まれ育った環境によって考え方が変わるから…宗教とか。

S複数:住んでいる地区とかね。

T:生まれた環境によって自由かどうかが変わるっていうこと?そりゃ変わるさ。でも,環境が変わっていても,人間にとって自由かどうかは考えられるんじゃない?話を戻すと,法によって縛られているのが不自由だというシンプルな問いに絞ってみようか。

SL:生きていること自体が自由なんじゃない?

T:どういうこと?

SL:本当につらくて生きたくないと思ったら自殺ということが選べるにもかかわらず,自分はどんなことがあっても生きたいと思っているから,今ここにいるわけであって,生きるということを選んでいること自体が自由なんだと思う。

SB:このあいだの自由とわがままの違いの話で幸福の話になったじゃないですか。生きているだけで幸せじゃないですか。幸せっていうのはその自由につながっていくのだと思う。

SM:そういう人もいるけれど,そうじゃない人もいる。

T:どういうこと?

SM:それは今自分たちの目線から見て幸せだと言えるけれど,もっと広く見れば,難民とか恵まれない人たちがもっといっぱいいるわけだし,どこの基準で全体を見ているのかわからないけれど,自分の目線から全体を見るなんて不可能だし,そんなね…自由がどうこうなんて言えるもんじゃない。

T:そりゃ,自由か不自由かは人それぞれですよ。でも,人間にとって自由とは何かと全体的に問うことは別だという議論は確認したよね。今の議論を確認すると,生きていることが幸せだと思う人もいれば,生きていることが苦痛で今すぐ死にたい人だっている,でも,自殺を選ばない人間は自由なのかということだよね。自殺を選ぶのは自由なの?不自由なの?

S複数:自由。

S複数:不自由。

SN:その選択肢しかないと選ばされている。

T:自殺は選ばされているのか,選んでいるのか?

SN:最終的には自分で選んでいる。

T:人間は不自由だと思っている人って,他にどのくらいいるの?

(2人挙手)

SO:国の法律がある限り人間は自由じゃない。食べたいときに食べられるから自由だっていう話があったけれど,人によってはアレルギーがあったり,宗教によっては食べられないものがあったりする場合もあるし。

T:障がいがある限りは,自由とは言えないということだね。

SP:自分が自由だからこそ思いどおりになったときに自由だと感じるものだと思います。

T:でも,君が不自由に挙手したのはなぜ?

SP:もしも,なんでも自分が好きなとおりにできたなら,それは「当たりまえ」だと感じるだけであって,「自由だ」とは感じないと思う。

T:なるほど,「当たりまえ」と「自由」は違うということだね。最後の締めにしてはナイスな意見ではないでしょうか。今の意見でとりあえず今回の議論は締めておきますが,哲学の対話ってこうやって,なかなかまとまらないけれど,なんか思考が開いたという経験があるんだと思うんだよね。


結びにかえて

 以上では,プラトン思想を授業で扱う上での課題意識からソクラテスの哲学実践の読み直し,さらにそれを基礎にした「哲学対話」の授業実践の取り組みについて報告してきた。

 こうした実践に取り組んだきっかけは,授業で生徒たちが自分の言葉に自信がもてなかったり,自分たちが何かを発言しても社会は変わらないと無力感を抱いたりする姿を目の当たりにした経験にある。これが若者の政治的無力感に通じているのだとすれば,自分たちの考え方や意見に対する自信を取り戻させるためには,どうすればよいのかと考えた末の試行錯誤が上述の実践である。

 牽強付会な面が多々あることは承知の上であるが,18 歳投票権が制度化された今,投票方法や選挙制度の知識だけにとどまらず,他者とともに対話し考えるという営み自体が,何かを変えることにつながることを学んでほしいと思い試みた次第である。以上については,読者各位の忌憚のないご批判をいただければ幸いである。


参照
1 アーレント『政治の約束』,高橋勇夫訳,筑摩書房,2008年,参照。
2 田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」,『世界の名著プラトンT』所収,中央公論社,1966年,参照。
3 「哲学対話」の授業実践については,拙稿「対話空間づくりとしての授業」(2007〜2009年度日本社会科教育学会課題研究報告書所収,日本社会科教育学会研究推進委員会編,2011年3月)及び第74回日本哲学会・哲学教育ワークショップ「シティズンシップ教育と哲学教育」(2015年5月,上智大学)にて提題者として報告した。