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特集@ 法教育から考える主権者教育
  主権者教育のあり方を探って
東京大学大学院教授 宍戸 常寿
(第一学習社 『高等学校 改訂版 現代社会』 『高等学校 改訂版 新現代社会』教科書 著者)
      参考文献
1.はじめに

 2015年6月に公職選挙法が改正され,選挙権を有する日本国民の範囲が年齢満20年以上から満18年以上に引き下げられた。2016年7月の参議院議員選挙から「18歳選挙権」が現実のものとなることを見据えて,「主権者教育」の必要性が各方面から説かれるようになっている。とりわけ18歳の生徒が通学する高校では,様々な模索が始まっている。その半面,主権者教育の内容が漠然としていることや,教員の政治的中立性の要請もあり,教育現場の当惑も大きいのではないかと思われる。

 主権者教育の重要な場は,やはり公民科(現代社会,政治・経済)であるが,ここでは既に「法教育」の実践が求められている点に注意したい。大学の法学部のカリキュラムでは法学と政治学が密接に関連している。とりわけ筆者の専攻する憲法学は,法学・政治学いずれの専攻であっても,必修科目とされるのが常である。このことは,初等中等教育段階においても,法教育と主権者教育がともに手を携えて行われるべきものであることを,示唆している。

 しかし,これまでの「現代社会」や「政治・経済」でも,憲法を1つの柱として法や政治が教えられてきたはずである。「主権者教育」において新たに何が求められるのだろうか。法教育と主権者教育の関係はどうあるべきなのだろうか。

 こうした問題を考えるために,この小論では,主権者教育をめぐる経緯を簡単に振り返った後に,「主権」とは何か,「主権者」とは誰かについて,若干の検討を試みたい。


2.主権者教育をめぐる経緯

(1)常時啓発から主権者教育へ

 主権者教育をめぐる動きの画期となったのは,総務省の「常時啓発事業のあり方等研究会」の最終報告書「社会に参加し,自ら考え,自ら判断する主権者を目指して―新たなステージ『主権者教育』へ」(2011年)である。

 もともと「常時啓発」とは,公職選挙法に由来する表現である。同法6条は,総務大臣や自治体の選挙管理委員会等が,常にあらゆる機会を通じて選挙人の政治常識の向上に努めるべきものと定めている。このため,従来の常時啓発の主眼は,選挙の公明確保や投票率の向上に置かれるきらいがあった。

 これに対して報告書は,これからの常時啓発は「シティズンシップ教育」の一翼を担うものでなければならず,「主権者教育」という新たなステージに進まなければならない,と宣言している。

 報告書によれば,シティズンシップ教育は1990年代の欧米で,コミュニティ機能の低下,政治的無関心の増加,投票率の低下,若者の問題行動の増加等といった背景の下で注目されるようになった。それは「社会の構成員としての市民が備えるべき市民性を育成するために行われる教育であり,集団への所属意識,権利の享受や責任・義務の履行,公的な事柄への関心や関与などを開発し,社会参加に必要な知識,技能,価値観を習得させる教育」である。

 そして,このようなシティズンシップ教育の中心である「市民と政治との関わり」,それが報告書の定義する「主権者教育」である。「国や社会の問題を自分の問題として捉え,自ら考え,自ら判断し,行動していく新しい主権者像」が教育の目標であり,「社会参加」と「政治的リテラシー(政治的判断力や批判力)」がそのキーワードである,と報告書は説明している。

 以上が,主権者教育のそもそもの出発点であるが,ここでは次の2点に注意しておきたい。第1に,公民科にとって主権者教育はまったく新奇なものではない。主権者教育をその一部とするシティズンシップ教育は,まさに「公共の精神に基づき,主体的に社会の形成に参画し,その発展に寄与する態度を養うこと」(教育基本法2条3号)そのものであり,そのことは報告書自身も正面から認めているところである。しかし第2 に,主権者教育は,報告書の言い方を借りれば,「子どもから高齢者まであらゆる世代を通じて」なされなければならない。公民科としては,生徒がそれまで受けてきた社会科教育を踏まえ,その後の高等教育や生涯学習への連続性も視野に入れながら,「主権者教育」を担わなければならない,と考えられる。

(2)主権者教育の現状

 改正公職選挙法の成立を受けて,総務省は2015年7月に「公職選挙法等の一部を改正する法律の公布に伴う主権者教育等の充実及び周知啓発について(依頼)」を発出し,文科省は10月,長く教育現場を支配してきた1969年の通達「高等学校における政治的教養と政治的活動について」に代えて,「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について(通知)」を示した。さらに9月には総務・文科両省が共同で,「私たちが拓く日本の未来―有権者として求められる力を身に付けるために」(生徒用副教材と教師用指導資料の2 バージョンがある)を公表している。

 こうした一連の動きは,高校・専門学校における18歳選挙権対応という喫緊の課題に応えたものだが,教師用指導資料では2つの留意点が示されている。このうち,「現実の具体的政治事象を取り扱うことによる政治的教養の育成」については,単なる知識の覚え込みではなく,公民科以外の場面も活用しながら,話合いや討論,模擬投票や模擬議会等の具体的・実践的活動の導入が促されている。

 このようなアクティブラーニングにより涵養が目指されているのは,@論理的思考力(とりわけ根拠をもって主張し他者を説得する力),A現実社会の諸課題について多面的・多角的に考察し,公正に判断する力,B現実社会の諸課題を見出し,協働的に追究し解決(合意形成・意思決定)する力,C公共的な事柄に自ら参画しようとする意欲や態度,である。これらはいずれもシティズンシップ教育の具体的目標としてふさわしいものと思われる。

 他方で教師用指導資料は「違法な選挙運動を行うことがないような選挙制度の理解」という留意点も掲げている。これは確かに必要なものであるが,伝統的な常時啓発の対象を生徒に広げるものであり,先の@〜Cに比べれば二次的な事項にとどまるべきもののように思われる。したがって,この第2の留意点に引きずられて,投票所での模擬投票や選挙運動に関する知識の習得といった易きに流れるようであっては,主権者教育もかけ声倒れに終わるのではないだろうか。


3.主権とは何か?

(1)国民主権の2つのイメージ

 次に,主権者教育という場合の「主権」について考えてみたい。結論を先取りすれば,「主権」とは手軽に定義を覚えさせれば済むような概念ではなく,むしろ複合的・立体的な作用として理解した上で,それを教育の具体的な場面や生徒の理解能力に応じて適切に展開すべきである。

 主権には,@国家の統治権(国家権力),A国家権力の最高・独立性,B国政の最高決定権の3つの用法があること,国民主権という場合にはBの意味で用いられていること,はいずれも公民科の基本的な知識に属する。日本国憲法前文の冒頭の一節を思い返す読者も多いだろう。


 日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,…〔中略〕…ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。


 問題は「主権が国民に存する」,言い換えれば「国民が国政の最高決定権を有する」とはどういうことか,である。ごく大雑把に単純化すれば,「権威(authority)」と「権力(power)」のどちらで「最高決定権」をイメージするかによって,国民主権は2通りにイメージできる。

 第1の,最高の政治的権威が国民に存在するという考えは,言い換えれば,国民を正統性の源として理想化する考えである。このような国民主権の理解は,代表制(代議制)と結びつく。代表者が個々の有権者の意向に縛られずに,討論を通じてあるべき真の国民の意思を発見することが重視されるからである。

 このような「代表」重視の主権イメージと比較すれば,政治を決定する最高権力が国民にあるという第2のイメージは,「参加」を重視するものといえる。このイメージからは,国民が直接権力を行使すべきだということになるので,直接民主制と結びつきやすい。


【図1 主権のイメージ】
「代表」重視の主権観「参加」重視の主権観
代表的思想家ロックルソー
国民の位置づけ権威(正統性)の源権力の行使者
政治の理念人民のための政治 人民による政治
決定プロセス代表者が討論により全国民の意思を発見個々の有権者の意思を集計して反映
有権者の参加方法選挙直接投票

 筆者の見るところ,直接民主制こそ理想の政治だが,古代ギリシャのポリスのような小さな国家でなければ不可能なので,現代国家ではやむを得ず間接民主制を採用しているのだ,だからこそ本来主権者である国民の「政治参加」が必要なのだ,というイメージが,初等中等教育の現場では強いのではないだろうか。これは,ルソーをいわば啓蒙思想家の最終ランナーとして高く位置づける傾向とも,無縁ではないように思われる。

 しかし,先ほどの憲法前文を読み返せば,そこに見出されるのは,むしろ「代表」重視の主権イメージの方である。このことは,代表制(代議制)は,決して直接民主制が採用できないがための次善の策なのではなく,むしろ民主的な社会を成り立たせる基本的な原理なのだ,という政治学の標準的な見方にも,相応しているのである。

(2)主権の立体的・複合的な理解へ

 もちろん「代表」と「参加」はいずれも必要である。「参加」一辺倒であっては多数者の専制や独裁につながり,あるいは過度の政治化を通じた社会の分断を招きかねない。他方で「参加」を欠いた「代表」は,職業政治家の独善や腐敗,「国民不在の政治」に堕する危険をはらんでいる。だからこそ,各国は,それぞれのやり方で「代表」と「参加」のバランスを取った政治制度を採用してきたし,そのバランスを維持することに腐心しているのである。

 日本国憲法は,国会を「全国民を代表する選挙された議員」で構成すると定め(43条),成年者による普通選挙を保障する(15条)とともに,個人に表現の自由(21条)や請願権(16条)を認めている。言い換えれば,主権が発動される基本プロセスは,有権者による選挙と代表者の討論・多数決である。しかし選挙と選挙の間であっても,世論,集会・団体への参加,請願等を通じて,国民が代表者に影響するという形でも,主権は現れることになる。

 さらに,主権者である国民は憲法を通じて代表者に権限を授け,その限界を定めるものと観念されており,そのことを憲法前文の冒頭は表現している。憲法改正に関する国民投票制度(96条)は,「代表」と「参加」のより良いバランスを求めて政治制度を変えるか,現在のバランスを維持するかどうかの最終的な判断権を,代表者ではなく国民に留保するしくみなのである。言い換えれば,憲法を改正すること/しないこともまた,主権の現れにほかならない。

(3)主権者教育と「主権」

 以上の素描から,「主権」を複合的・立体的に理解すべきだ,という筆者の主張がそれほど素っ頓狂なものでないことが,分かっていただけたのではないだろうか。こうした主権の複雑な有り様は,そのまま生徒に教えることは難しいかもしれないが,よく考えてみれば,これまでの公民科での政治制度の説明全体とおおむね一致したものでもあるはずである。

 したがって,これまで基本的な知識として教えられてきた政治制度を,どのように政治を理解し向き合うかという国民の心構えの側から体得させることに,主権者教育の力点は置かれるべきであろう。まず「代表」の側面については,代表制(代議制)の固有の意義を強調するとともに,定期的な選挙によって,有権者がいわば代表者に「中間テスト」を課しているのだ,ということが理解される必要がある。

 他方,このような選挙との関わりに限られない,より広い「参加」については,代表者の活動に日常的に関心を持ち,それを評価・批判できることの意義が強調されなければならない。それはまず,次の選挙で賢く投票するために重要である。次に,それは選挙と選挙の間の様々な意見・情報が世論として形成されて,代表者に影響するダイナミズムそのものである。この点からいえば,日常的にSNSで多くの意見・情報に接し,また自らの意見を表明している生徒も多いはずだが,それもまた,生きた主権者教育として正面から位置づけられるべきだろう。


4.主権者とは誰か?

(1)主権者の単数形/複数形

 次に,「主権」について考えたことにも重なるが,「主権者」とは誰かという問いを考えてみたい。憲法前文には「日本国民」「われらとわれらの子孫」という表現が登場する。ここには,主権者が単数形と複数形の双方でありうること,主権者が時間の中に存在することの2点が,示唆されている。

 第1 に,主権者は,気取って「共時的」にいえば,国民一人ひとり,あるいはその集合体としての国民として,存在する。主権者教育との関係で大切なのは,「主権者」における多様性と統一のバランスである。

 「国民主権」というと,どうしても国民が一体として決定を下すというイメージが強い。これは特定の勢力・党派に限らず,普遍的に見られる現象なのだが,政治家が「国民の負託を受けた」と強調し,反対派を「非国民」呼ばわりしかねない勢いで演説する際には,特にそういう色彩が濃厚である。しかし,現実の「主権者」のうちには,多様な信条・性別・世代・所得・地域・価値・利益等の違いが存在している。このような違いは,そのままにしておくべき場合,当事者同士の話合いで調整すべき場合もあれば,政治によって社会全体の問題として決定すべき場合もある。最後の場合には,政治制度の定める手続きに従って,議論によって可能なかぎり集約を図り,必要であれば多数決によって解決がなされる。この最後の段階において,「代表」重視のイメージにおける,真の国民意思という意味での「主権者」が,はじめて姿を現すのである。

 したがって,主権者教育の出発点は,ある社会的課題についての感じ方が「私は友だちと違う」ことに気づかせることである。次に,そのような多様な価値・利益等の併存が,実は一人ひとりの内にも存在していることに,目を向けてほしい。そのことは,「社会保障は充実した方が良いけれども増税はいやだ」等,いくらでも簡単な実例を示すことができるだろう。

 例えば模擬投票も,安全保障政策で好ましいA党と,経済政策で優れているB党のどちらに投票すべきかという状況に身を置かせて,一人ひとりが自らの中で優先順位を付け,その投票を全体で集計するということの意味まで理解が及ぶよう,工夫が望まれる。こうした作業を通じて,議論によって自分と他人の多様性を知り,他人を説得し説得されるという営みの積み重ねこそが「主権者」を構成するのだという点が理解された段階で,改めて政治制度の知識に戻ることも有意義だろう。

(2)時間の中の主権者

 第2 に,再び気取っていえば,「通時的」な存在としての主権者について考えてみよう。「われらとわれらの子孫」という憲法前文の表現は,現在の有権者に限定されない「主権者」のあり方を示している(→図2 参照)。


【図2 時間の中の主権者】

 現時点で投票し,政治参加する有権者が,主権者であることは確かである。しかしそのように考えた時点で,まずは選挙権を保有していても,現実には病気等の理由で投票できない,政治参加できない有権者の存在に気づかされるはずである。さらに,グローバル化が進む現代では,日本国籍を保有しない外国人も地域社会に参加している。「国民主権」と定住外国人の選挙権の関係は,既に公民科の基本的な知識として扱われているが,外国籍の生徒がいるクラスでは「主権者教育」は戸惑いをもたらすかも知れない。

 さらに,国民の間で選挙権年齢が引き下げられたといっても,それでは18歳未満の国民は主権者ではないのか。18 歳選挙権の背景には,「世代間公平」をめぐる議論が控えているが,18 歳未満の国民,さらには将来世代の国民もまた,代表者が討論によって発見すべき「主権者」ではないのか。もしそのように考えるならば,翻ってこの日本社会にかつて生き,去って行った世代もまた「主権者」の一部のはずである。

 このように,いったん時間の地平で主権者のあり方を考えてみると,現在の代表者はもちろん,代表者を選挙で選んだ有権者も,「主権」をどのように行使しても良いわけではないことに,気づくはずである。憲法97条は,基本的人権について,次のように定めている。

 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて,これらの権利は,過去幾多の試錬に堪へ,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 この規定が述べることは,基本的人権である選挙権や表現の自由に当てはまるから,当然に主権者のあり方にも当てはまるべきものである。いま主権者であることは,過去と将来の「われら」から課せられたものである。この理は,おそらく公民科ではなく,生徒会や部活動といった課外活動の場においてこそ,生徒の腑に落ちることかも知れない。

 これまでの議論はやや哲学的に感じられたかも知れないが,有限の時間を生きるひとりの有権者もまたやはり時間的存在であることを,免れない。選挙が定期的に実施されなければならないことは,実は代表者だけでなく,有権者一人ひとりにとっても,自らの過去の投票が正しかったかどうかを反省する「中間テスト」でもある。

 最初の選挙の経験が次の選挙行動に有意な影響を与えることは,実証的な研究が教えるところだが,18歳がうまく投票所で投票できればよいというのでは,主権者教育としてあまりにも寂しい。筆者は,主権者教育を特定の学年・学期にまとめて一回きりのものとして実施するのではなく,学期や学年をまたいで行ってはどうか,と思っている。議論の様子をビデオに,模擬投票の結果を文書に残した上で,他の公民科の学習が進んだ段階で,もう一度過去の自分たちの議論や投票結果を振り返ってみて,何が不足していたか,自分たちがどれほど成長したか,実感する機会があってしかるべきだと考えるからである。


5.法教育と主権者教育

(1)法と法教育

 これまで主権者教育の前提となる「主権」「主権者」のイメージについて論じてきたが,以下では現場で先行している法教育と,主権者教育の関わりについて考えてみたい。司法制度改革審議会意見書(2001年)が「学校教育等における司法に関する学習機会を充実させることが望まれる」と提言したことを受けて,2004年には法務省の法教育研究会が報告書「我が国における法教育の普及・発展を目指して―新たな時代の自由かつ公正な社会の担い手をはぐくむために―」を公表している。この報告書によれば,法教育のポイントは,@法は共生のための相互尊重のルールであること,A私的自治の原則など私法の基本的な考え方,B憲法及び法の基礎にある基本的な価値,C司法の役割が権利の救済と法秩序の維持・形成であること,である。

 こうした経緯を受けて,2009年の現行学習指導要領には,特に現代社会には「個人の尊重と法の支配」の項目が置かれた。模擬裁判をはじめとする様々な取組が,弁護士の協力も得ながら実施されているところである。

 いまから振り返れば,法教育研究会の報告書は,後の総務省の常時啓発研究会のいうシティズンシップ教育を,市民と法の関わりに注目して具体化したものと見ることができる。また,法教育の目標は,法に関する基本的な知識・技能の習得に限られていない。法に関する基礎的な思考力・判断力の育成,さらに進んで現行の法・制度を批判的に検討し,能動的に関わることができることもまた,法教育の目指すところとされている。とりわけ最後の点は,主権者である国民が政治を通じて現在の法を改廃するか維持するかという問題でもあり,主権者教育の目標と大きく重なり合っている。

(2)法と主権の連関

 このように,法教育と主権者教育はシティズンシップ教育の一部をなしており,内容・手法ともに密接に連関しているから,両者の有機的な協働が望まれる。しかし,これは日本の教育一般にいえることだが,教育の改善という場合に,従来の内容を多少縮小しただけで新しい内容を足していく傾向が強い。スクラップ・アンド・ビルドではなく,建て増しを重ねていった結果,迷路状の建物になってしまっては,生徒も教師もともに困る一方であろう。

 従来の公民科においては,政治制度や憲法,言い換えれば国家と市民の公法的関係に関する基本的な知識の習得が,高い比重を占めていた。そこに新たに加わった法教育は,司法制度の意義を強調し,市民同士の私法的関係にも光を当てるものである。そこに主権者教育を付け加えるのであれば,法教育との相互関係や,従来の政治制度・憲法に関する学習との関係を整理しなければならない。

 筆者は,その際には,主権ないし政治と法の関係が,基本的な視点に置かれなければならない,と考えている。もっともこれまた主権の概念と並んで,政治理論・法理論上の難問なのだが,初等中等教育において「平和で民主的な国家及び社会の形成者」(教育基本法1条)を育成するという点では,次のような最大公約数的理解に立てば十分ではないか,と思われる。

 先にも触れたとおり,主権者は代表者の選挙を通じて,現行の法・制度を改廃したり,新しい法・制度を制定したりすることが認められている。この一面だけを見れば,「政治が法に優越する」ように見える。他方,主権者といえども,個人の尊重(憲法13条,教育基本法2条2号参照)という社会の基本価値を侵すことはできない。むしろ,主権者は個人が尊重される社会を形成し維持するために,日本国憲法を制定し維持している,と観念される。そして,一回憲法を制定した以上は,主権も憲法の定めるルールに従って現れねばならない。これこそが「法の支配」の原理であり,この面を見れば「法が政治に優越する」ように見えるのである。

 加えて,主権者とは誰かという問いをめぐる議論を,思い返していただきたい。主権者はあらかじめ存在しているというよりも,議論と多数決を通じて,過去と将来に開かれた形で,はじめて立ち現れるものである。政治と法の関わりという観点から見れば,主権者にとって法は不可欠なものである。そのことは,憲法が選挙権・表現の自由を保障し,公職選挙法が選挙の具体的ルールを定めているということからも,明らかだろう。

 さらに,市民は,主権者の一員としてお互いに政治的な利益や価値観が異なり,それを議論で調整し,投票で(暫定的に)決着を付けたとしても,それと同時に,ともに社会の構成員として生き,社会を担うことに変わりはない。他方,社会の中で,例えば市民同士の紛争があり,それが既存の法・制度では適切に解決できないときには,主権者が政治を通じてその紛争を解決することができる。このような面からも,主権ないし政治と法は,密接に絡み合っている。

 したがって,「法教育は法教育,主権者教育は主権者教育」というようにそれぞれ独立に行うのではなく,主権と法それぞれが社会で果たすべき役割と,両者の有機的な連関に配慮した教育が求められる。例えば,ある社会的課題を解決するという実践型の教育プログラムの中で,@既存の法によって解決できるか,新しい法を定める必要があるのか,A新しい法を定めるべきだとすれば,どのように政治参加して代表者に働きかけるべきか,B定められた新しい法がどのように行政や裁判によって実施されるのか,それによって新たな問題が生じないか,等といった視点を設定し,主権者教育と法教育を融合させることも,考えられるのではないか。


6.むすびに代えて

 以上述べてきたことからすれば,主権者教育は,教育基本法が教育の目的・目標として掲げてきたものであり,とりわけ公民科にとって全く新奇なものではない。ただ,従来の政治教育よりも一歩踏み込むものであることは確かであり,他方で話合いや模擬投票等の手法が教師や生徒の自己満足に終わらないためにも,一定の時間的・精神的余裕を持って主権者教育は実施されるべきである。

 現在,文科省の中教審教育課程部会「高等学校の地歴・公民科科目の在り方に関する特別チーム」は,次の学習指導要領で「現代社会」に代えて導入が予定されている必修科目「公共」について,「自立した主体として社会に参画し,他者と協働するために」の大項目の下に,「法的主体となる私たち」に続いて「政治的主体となる私たち」を置いた案を検討している。この小論で述べてきたことからすれば,シティズンシップ教育の中で,法教育と主権者教育を有機的に連携させる方向性を探っているものと評価できる。

 いずれにしても,主権者教育はいまだ模索の段階にある。総務・文科両省の副教材で内容が確定したものでもなければ,模擬投票を形式的にやれば良いというものでもなく,今後も教育現場で創意工夫が積み重ねられ,その経験が広く共有されてはじめて,あるべき姿が見えてくるものと思われる。この小論が,そのための一助になれば,幸いである。


参考文献
●岡田順太「主権者教育と法教育―政治参加の模擬体験を通じて」白鴎法学22巻1号(2015)
:憲法学の立場から,主権者教育と法教育をめぐる経緯をわかりやすく解説している。
●片山善博「選挙権年齢の引下げと主権者教育のあり方」世界879号(2016)
:著者は元鳥取県知事・元総務大臣で,現在は慶應義塾大学教授。政治・行政・学問それぞれの経験から,模擬投票・模擬議会でなく,現実の請願等も主権者教育に組み込むことを提言している。
●土井真一「高等学校『現代社会』における法教育―『幸福』『正義』『公正』を考える」自由と正義62巻3号(2011)
:法教育の導入に関与した憲法学者が,法教育の目標やあり方について詳しく自らの立場を論じたもの。
●川崎市教育委員会『自分の意思が社会を創る―主権者教育の手引き―』(2016)
:小中高の各段階における主権者教育のあり方について,具体的な授業内容を示しており,参考になる。