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ネットワークから見える“つながり”と本当の自分



ネットワークコミュニケーションを考える

慶應義塾大学  環境情報学部  准教授  加藤 文俊

 学校の授業とは,基本的に顔の見える(実名)のコミュニケーションである。そこであえて匿名性をもつネットワークコミュニケーションをおこなったらどうなるだろうか。実験的な授業の取り組みを伺った。


1 はじめに

 ここ10年のメディア環境の変化にともない,大学における開講科目やその運営方法も変容しつつある。とりわけ筆者が専門とするコミュニケーション論やメディア論という領域では,あたらしいコミュニケーションの可能性について考えることが,つねに求められる。学生にかぎらず,人びとのコミュニケーションのあり方が多様化していることをふまえると,たんなる知識や「理論」としてではなく,「実践」をともなうかたちであたらしい情報技術を理解することが重要となる。こうした一連の変化は,私たちの関係性の問題として考えるべきものだといえるだろう。

 私たちの日常生活において,ネットワークという“つながり”がどのように生まれ,拡がっていくのか。また,こうした“つながり”はどのような意味をもちうるのか。筆者が2001年度から開講している「ネットワークコミュニケーション」では,電子メールやウェブ上の掲示板に代表されるコンピュータを介したコミュニケーション(CMC:Computer Mediated Communication)のみならず,フェイス・トウ・フェイスのコミュニケーション(FTF)をも含めて,これからのコミュニケーションのあり方について考えている。以下では,これまでに開講してきた「ネットワークコミュニケーション」を例に,あたらしい“つながり”について論じてみたい。


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2 ネットワークコミュニケーションへのアプローチ

 コミュニケーションをテーマとする授業のデザイン・運営には,工夫が必要となる。コミュニケーションは,私たちにとって重要な研究対象であると同時に,日常生活に欠くことのできない営みだからである。つまり,コミュニケーションについて学ぼうとすると,つねに「理論」と「実践」との関係を考えざるをえないことになるのだ。「理論」などというといささか難しく聞こえるかもしれないが,「考え方」という意味でとらえると,誰もがコミュニケーションの「理論」をもっているといえるだろう。それは,過去の経験や勘,そして願望なども含め,「こうすれば,こうなる」という,自分なりに想定するコミュニケーションのための指針のようなものである。私たちは,意識的にも無意識的にも,どのようにコミュニケーション行動をとればよいか,という自分なりの「理論」にもとづいてコミュニケーションをおこなっている。そして,自分のコミュニケーションの..理論」が正しいかどうか,つまり「セオリーどおり」に事がはこぶかどうかは,実際のコミュニケーションの現場において,具体的に試されることになる。その意味で,私たちはつねに,コミュニケーションの「実践」をつうじて,みずからのコミュニケーション「理論」の妥当性を確かめているのだ。こうした,コミュニケーションというテーマに特有な性格をふまえると,「理論」と「実践」とが交錯する「場」を研究対象として選ぶことはとても興味深い。あたらしい情報技術によって,コミュニケーションの「場」は多様化・複雑化しているため,調査・研究自体の進め方も変容せざるをえないのである。

図1 重層化するコミュニケーション環境

 「ネットワークコミュニケーション」では,個人的な体験やエピソードを中心に,描写・記述することを重視することにした。とくに注目しているのは,私たちが複数のコミュニケーション・チャネルを,必要に応じて(時にはほとんど意識することなく)組み合わせたり,使い分けたりしているという点である。たとえば,ウェブ上の掲示板(電子会議室)のように,コンピュータを介したコミュニケーション(CMC)は,匿名性や非同期性,同報性などといった観点から性格づけられる。いっぽう,フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーション(FTF)では,「本当の自分」を露出せざるをえなくなり,(少なくとも物理的には)同じ「場」を共有することになる。

 人と人との“つながり”を考えるとき,これらのふたつは相互に関連しながら,私たちのコミュニケーション機会を構成している。近年のメディア環境の変化にともなって,より多重的なコミュニケーションが可能になったのである(図1)。



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3 授業をゲームにする

 こうした重層的なコミュニケーションのあり方を考えるために,毎年,実験的な授業のデザイン・運営を試みてきた。そのひとつのやり方として,ほかの授業でも試しているのが,授業をゲーム化するという方法である。ゲームなどというと,人はまず遊びを連想するので,いささか不謹慎だとの評価をされがちだが,実際には「体験学習」の考え方にもとづいた学習環境のデザインである。ゲーム的な環境における学習については,たとえば「ゲーミング・シミュレーション」とよばれる調査・研究の分野があり,国内外で学会活動もある。単純化すると,「体験学習」の理論は,私たちの日常生活における直接体験こそが学習の源泉であるという仮定に依拠している。何らかの課題(タスク)に直面するという状況が,さまざまな対処の方法を模索するという活動に結びつく。「ゲーミング・シミュレーション」は,ゲームという能動的な参加と,シミュレーションという実験的な探索を組み合わせたユニークな学習機会を構成するのである。

 ゲーム的な構造をもたせることで,私たちのコミュニケーションに関する「理論」と「実践」とが交錯する「場」をつくることができる。ゲームにおいては,緩やかなルールにもとづいて,あらかじめ参加者の役割が決められており,コミュニケーションが構造化されているため,コミュニケーションの本質について考えるためのよい機会になる。ゲームのなかのやりとりは,日常生活のコミュニケーションにくらべると,かなり単純化されることにはなるが,制限を設けることで,あらためて自分のコミュニケーションスタイルや,自分らしさについてふり返ることができる。そして,ゲームであるから,(ある程度の)失敗も許される。


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4 もうひとりの<自分>と出会う

 「ネットワークコミュニケーション」を特徴づけるものとして,匿名性がある。厳密にいえば,ハンドルネームという「名前」があるので,「本当の名前」で個人が特定されないだけで,ある種の人格をもった存在どうしのコミュニケーションが成立する。後述するように,昨年度までは,授業の最初の段階で,学生たちにハンドルネームを提出してもらい,グループで課題に取り組むようなデザインで授業を運用した。学生たちはグループ作業の際,ハンドルネームで,そしてウェブやメールのみを介してグループワークを進めることになる。つまり,同じ大学に通い同じ「ネットワークコミュニケーション」という授業を履修しているということは確かだが,あとは顔を見たことのない人と一緒に考え,アイデアをやりとりするのである。

 たとえディスプレイの上で明滅する文字であっても,たとえ書きこみをしている本人の顔が見えなくても,それは「リアル」な体験である。学年や性別といった属性は消失するかもしれないが,コミュニケーションのプロセスのなかで,ハンドルネームがひとつの「人格(アイデンティティ)」をもった存在として位置づけられるようになる。また,コミュニケーションに際してのルールや作法,ボキャブラリーなどが生まれることもある。

 ハンドルネームで,つまり別の<自分> として,誰かとネットワークで出会うことからゲームがスタートする。基本になるのは,コンピュータのディスプレイ上で生成されるテキスト(文字)によるコミュニケーションである。出会った人がどのような人なのかを判断すること,ネットワークのなかの<わたし> の“キャラ”を呈示することは,いずれも,おもにテキスト(文字)のやりとりによって進められる。


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5 「ネコミゲー」の世界

 あたらしい活動には,あたらしい名前が付与される。賛否はともかく,学生たちは,正式な名称を縮めてネーミングをする。ほどなく,「ネットワークコミュニケーション・ゲーム」は「ネコミゲー」となった。2002年度は,履修者それぞれが,コンサルティング会社の社員となり,筆者がクライアントとして企画を依頼するという設定でゲームを進めた。会社といっても,フェイス・トゥ・フェイスで出会うわけではない。ネットワーク上の掲示板」を「会議室」に見立て,社員の役割を演じる学生たちは,およそ3か月間にわたって,ニックネーム(ハンドルネーム)のままで企画についての話し合いを進める。

 サイト上のバナーは,それぞれのコンサルティング企業の「看板」で,社名やバナーのデザインを決めるところからグループワークがはじまる。ゲームとしての企業活動を演出するために,ほかにも,銀行やマスコミなどの役割も導入した。複数のコンサルティング企業がコンペに参加するような状況で,それぞれがネットワーク上でのやりとりを通じて企画書を作成するのだ。

図2 町として展開した「ネコミゲー」(2003年)

 2003年度は,ゲームのための空間を,「町」というメタファーで構成した(図2)。こんどはコンサルタント業務ではなく,「町」の住民として暮らし,グループのメンバーとともに,課題に取り組むという設定であった。不思議なもので,「町」のようなデザインをつくるだけで,履修者たちの感覚が変わった。機能的にはさほど変わらず,それぞれの家の玄関ドアが「掲示板」への入り口になっているだけだが,予想以上に「掲示板」への帰属意識が醸成されたようだ。同居人,家族,兄弟など,想定される関係性は,履修者(住人)たちのやりとりのなかで,いわば即興的に構成されていった。レンガ造りの洋館であれば,メイドやペットの役を演じる学生が現れ,和風の家には「雷家」という名前がつけられる。こちらがあらかじめ準備した画像が,イメージづくりに少なからず影響を与えているとは思うが,「ネコミゲー」のリアリティは,参加者のネットワーク上でのやりとりによって構成されるのである。

 続く年は,同様に「町」というゲーム空間を設定し,架空の大学(ネコミ大学)に通うというゲームにした。大学の授業内に大学をつくるということで,デザインも運営もかなり煩雑になってしまったが,通常では4年間かかる大学生活を,およそ3か月に圧縮し,あらためて「大学とは何か」を考える試みであった。

 このように,ゲームとしてのリアリティを構成する手がかりやきっかけを変えながらも,多重的なコミュニケーションとメディアとの関わりについて考える「場」をデザインしてきた。



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6 「場」としてのSNS

 そして2006年度は,SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を使って,「ネットワークコミュニケーション」の運営を試みた。対象とするテーマは,開講以来変わらないが,これまでの「掲示板」を中心とするコミュニケーション環境ではなく,「友だちの友だち」といった関係の「深さ」や「信頼」,どの程度まで自分自身の情報を開示するかという「自己呈示」の問題をさらに明示的に扱ってみることにした。履修登録者はおよそ80名で,初期は,授業担当者(筆者)がその80人全員の「お友だち」という状態でスタートした。通常のSNS の運用とおなじように,招待メールを送り,その招待に応じることが「ネコミゲー」への参加表明ということになる。システムの制限上,また授業での運用という性質上,筆者が管理者として招待しないかぎり,あらたに参加者を招待することはできない設定で進めた。つまり,「友だちの友だち」というかたちで「人脈づくり」は可能であったが,授業の履修者以外の誰かが,このSNS に参加することはできなかった。

 今回は外部のサービスを利用したが,SNS の基本的な機能は整っていた。個人のプロフィール,画像のアップロード,コミュニティ(グループ)の作成,メッセージ機能,日記(ブログ)機能などを活用しながら,“つながり”について考えることを目指した。

 SNS での履修者たちのやりとりを眺めていて,そして私自身も参加しながら,いくつか気づいたことがある。まず,教員という立場から見ると,学生たちがSNS への書きこみやコメントの投稿をする頻度や回数は,教室での講義・グループワークなどへの参加度や積極性と,ほぼ連動していることがわかった。どうやらこのSNS は,フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを代替するよりも,メンバーどうしの関係性を維持・強化するのに役立っているのである。「会えないから」ネットワークを利用するのではなく,むしろ(いつかは)「会うために(会うことを前提に)」SNS に書きこみをするのである。SNS に投稿される日々の出来事を,お互いに参照しているからこそ,会ったときに話題を共有しやすく,より細やかに文脈を理解することもできる。そして,その会話が,こんどはSNS 上で継続する。ひとたびこのコミュニケーション環境に親しみをおぼえると,お互いの距離感が縮まり,グループとしてのまとまりも出てくるようだ。つまりこのSNSは,次に会うまでの「間」を埋める 機能を果たしていたと考えられる。

図3 SNS を使った「ネコミゲー」(2006年)

 またSNS は,掲示板と同様に,グループへの帰属意識に多少なりとも影響を与えるという点も興味深い。実際に積極的に日記などを綴らなくても,このサイトを見ておかないと,話についていけなくなる,という感覚が生まれた。いわゆる「リード・オンリー・メンバー(ROM)」である。たしかに,このSNS を介したコミュニケーションは,フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションのきっかけや話題づくりに役立つ。

 学生どうしの他愛のないやりとりであるとはいえ,自発的にSNS に書きこみを続け,みずからの行動をオープンにすることを基本として成り立つコミュニケーション環境は,これからの“つながり”のあり方を考える際のヒントを与えてくれる。自分の日常をどこまで公開するかという判断は,相手との距離感をどう考えているかをあらわしているといってよい。同時に,それはコミュニケーション欲求の表明でもある。

 大学では,講義や演習という「時間」と,教室や研究室という「空間」を,フォーマルな「場」として取り扱ってきた。だが,私たちの絶え間ないコミュニケーション欲求と,それを支えるメディア環境の変化が,これまでの「時間」「空間」の感覚を著しく変容させている。そして,創造的な活動においては,インフォーマルなコミュニケーションが重要であることを,私たちは経験的に知っているのである。インフォーマルなコミュニケーションを通じて,グループはより凝集性を高め,あらたな性格を帯びるはずだ。



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7 おわりに

 この科目にかぎらず,実験的な試みについてはいつも賛否両論である。毎年,履修者の2割ほどが「ネコミゲー」に没入する。そのなかには,掲示板への書きこみが初めてだという学生も,必ず含まれている。80人の履修者を想定すると,およそ15名である。ネットワークを介して,あらためて<わたし> と出会い,コミュニケーションのあり方や,自己呈示,アイデンティティの問題について体験的に考える学生は,確実にいる。15名という数は,手のこんだ運営方法の割には,いわゆる「教育効果」という意味では評価できないものかもしれない。とはいえ,「ネコミゲー」に没入する学生たちは,授業担当者の予想をはるかに上回るスピードと密度でコミュニケーションを取り合い,“つながり”を育んでいく。

 実際に,2006年度の「ネコミゲー」でも,「お友だち」として認証しあったメンバーどうしの「オフ会」が何度も企画されたし,講義の最終回以降も,活発なコミュニケーションが続けられていた。もはや,通常の授業としての位置づけや,成績評価などとは直接関係のない,コミュニケーションのためのコミュニケーションが生まれるのである。こうした体験を通じて,時間割というシステム自体が,やや窮屈な仕組みなのではないかとあらためて考えさせられる。決められた時間・場所に90分間集うということは,教員と学生たちとの共同作業によって成り立っている。私たちは,その共同作業自体に慣れているために,窮屈さに気づかなくなってはいないだろうか。学習という観点から“つながり”を考えると,それは,時間割の枠を越えて構成・維持される方が,はるかに自然で創造的なはずだ。電子ネットワークは,教室での活動を効率化するだけではない。まさに,教室という「場」そのものを拡張させるという意味で,時間と空間の再編成に寄与すべきものなのである。

 何人もの<わたし> がいることは,病理ではない。多重な人格は,棲み分けをしているだけであって,それぞれがリアルなのである。状況に応じて,コミュニケーションの様式や表現方法を上手に選び,組み合わせることで,ストレスを感じることなく<わたし> を使い分けることが重要なのである。“つながる”だけでは十分ではないことに,私たちは気づいている。どのように“つながる”か,という関係性の質が問われているのだ。それを考えるためにも,「理論」と「実践」との接点に注目したいのである。


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(エデュカーレ情報 No.17 掲載)

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