TOP
特集1 大航海時代の南蛮菓子 料理が繋ぐ日本とアユタヤ
東京大学史料編纂所准教授 岡 美穂子
 はじめに
 タイに伝わる南蛮菓子
 アユタヤのポルトガル人町と日本人町
 キリシタンと東南アジア
 グローバル化と日本
 参考文献


はじめに

 筆者は常々,従来の日本の歴史学では,「南蛮」と呼ばれてきたスペイン・ポルトガルと日本の交流から生じた諸現象(政治・経済・文化上の)について関心を持っている。現代の我々の生活の中で,最も身近に感じる「南蛮」は,カステラを代表とする南蛮菓子ではないだろうか。ポルトガル人がもたらしたと考えられている砂糖と鶏卵を多く用いた南蛮菓子の生産地としては,とくに長崎がよく知られるが,博多でも「鶏卵素麺」という銘菓が愛好されている。「鶏卵素麺」もまた他の南蛮菓子同様,当初は長崎の名産品であったが,江戸時代に博多でも作られるようになった。この「鶏卵素麺」にそっくりな菓子が,ポルトガル由来の菓子として伝わり,日常的に愛好されている地域が日本以外のアジアの地域にあることをご存じだろうか。その地域とは,その昔シャム王国と呼ばれたタイである。しかも,ポルトガル菓子の伝来には,一人の「日本人女性」が関わっているというのが現地の定説である。


▲@チェンマイの市場で売られる鶏卵素麺

タイに伝わる南蛮菓子

 タイでは,ポルトガル人伝来といわれる卵の黄身と砂糖を大量に用いた菓子には,「黄金Thong」という言葉が冠せられている。卵の黄身に多量の砂糖を加えたこの種の菓子は,タイ人好みの黄金色の輝くような彩から,祭りや祝祭日の菓子として重用されている。とくに「フォイ・トーンfoy thong」と呼ばれる,日本の鶏卵素麺によく似た菓子は,タイの人々の間で愛好されている。ポルトガルでは,糸状の卵菓子を,「卵の糸 fio de ovos」と呼ぶ。昔の料理書には,「王様の卵 ovos reais」「卵の麺 aletria deovos」などの名前で登場することもある。現在のポルトガルでは,クリスマスの菓子のひとつとして知られている。

 卵黄・砂糖系の菓子が,タイ全土で広く愛好されているのに対し,トンブリー(現在はバンコクの一地域で,1767年から15年間首都とされた)の旧外国人居留区に建てられたサンタ・クルス教会近隣の菓子屋タヌシンガ・ベーカリーに伝わる菓子は,この地域に限定的なものである。それは,「カノム・ファラン・クティ・ジン khanom farang kuti Jin―唐寺のヨーロッパ菓子(以下カノム・ファランと称す)」と呼ばれている。「farang」はタイ語で西洋全般を意味するが,元々は,マラッカ以東の地域,とくに中国でのポルトガル人の呼称「ラン」からきた言葉であると考えられるので,伝来どおり,ポルトガル系の菓子と考えてよいであろう。

 この「カノム・ファラン」は,日本のマルボーロや甘食のような円形の菓子パンに,ドライフルーツが入ったものである。材料は,鴨の卵,砂糖,小麦粉とシンプルであるが,その焼き方に特徴がある。まず窯の上に砂利を敷き,これを下から加熱する。そこに生地を入れた型を置き,その上に鉄板を被せて炭を置き,さらに加熱する。つまり上下双方から熱が加わるという方法である。この作り方は,カステラの江戸時代の製法「引き釜」とよく似ている。

 サンタ・クルス地区には,カトリックの祭りの期間に調理される他のポルトガル起源といわれる料理(子牛のスネ肉ロースト,ポルトガルのコジード【おでん】風のもの)もあり,タヌシンガ・ベーカリーの店主は自分たちの先祖が,ポルトガル人と日本人の混血であったと信じている。


アユタヤのポルトガル人町と日本人町

 タヌシンガ・ベーカリーの店主の祖先が,日本人とポルトガル人の混血であったかどうか,その真実は定かではないが,実際にそのような背景を持つ人物が,タイの文化にポルトガル料理を導入したことが定説となっている。その人物の名前は,マリア・ギオマール・デ・ピーナ。日本人を母に,ポルトガル系ベンガル人を父に持つ女性である。

 マリアが生きた時代のシャム王国はアユタヤ朝時代にあたり,大陸部東南アジア(現在のインドシナ半島からベンガル湾東岸まで)でも,最大の勢力を誇った国家であった。ポルトガル人たちは,マラッカの攻略(1511年)後,すぐさまアユタヤ朝に使節を送り,交易を始めた。アユタヤ朝のような広大な領域を支配する国家は,様々な商品が集積する土地であり,とくに大陸部東南アジアで産出される銀(タイ北部やビルマ産),鉛(タイ中部産),錫(マレー半島産)などの金属が豊富に取引されていた。16世紀,日本に輸入された鉛の多くがタイ産であったことが,近年の研究で指摘されている。

 16世紀前半には,ポルトガル人商人がアユタヤを続々と訪れ,そこに定住して交易に従事し始めた。アユタヤでは中国産商品も豊富に取引されていたし,中国方面へ渡る船も見つけることができた。アユタヤは交易のために諸民族が行き交う,東南アジア随一の活気にあふれた港であった。また,ポルトガル人がもたらした鉄砲などの火器は,当時ビルマやカンボジアといった近隣諸国との戦争状態にあったアユタヤの国王の目に,非常に魅力的に映ったにちがいない。ポルトガル人は傭兵として,たびたびビルマとの戦争に駆り出されたが,相手方のビルマ軍の中にも,ポルトガル傭兵が混在していた。

 16世紀末には,アユタヤに日本人も住んでいたことが,諸文献から確認されるが,本格的に日本人町が発達したのは,やはり朱印船貿易が始まる江戸時代のことであっただろう。アユタヤの日本人町は,チャオプラヤ川沿いに,アユタヤ城壁の外の左岸に造られた。そして川を挟んで向かって右岸には,ポルトガル人の集住区「バン・ポルトガール」があった。このポルトガル人居住区にイエズス会の教会が建てられたが,そこに通う信者には,在住ポルトガル人やその家族(現地人)に限らず,1627年の記録によると,400名の日本人キリシタンの姿もあった。


キリシタンと東南アジア

 江戸幕府の禁教令によって,主だった日本人キリシタンが,宣教師らと共にマカオ・マニラへと追放されたのは,慶長19(1614)年のことである。この年に日本を出たキリシタンの数は,約300人程度という記録があるが,朱印船貿易そのものは,その後30 年近く続いたので,信仰の自由を求める人々の中には,マカオや東南アジアの日本人町へと移住していくものがあったと考えられる。これらのアジアの港町に移住した日本人たちは,早晩混血化を経て,現地人に同化していったが,イエズス会士たちは,海外在住の日本人の信仰維持を名目に,東南アジアの港町における教会建設と布教活動を広げていったのであった。マリア・ギオマールの生年は1664年で,祖父母は,日本からアユタヤへ移住したキリシタンであったことが知られている。母親は山田ウルスラというアユタヤ育ちの日本人であったが,父親はポルトガル系ベンガル人であったという。

 1682年,マリアは18歳の時に,イギリス東インド会社の社員として1675年にアユタヤへやってきたギリシア人コンスタンティン・フォールコンと結婚した。それを機に,フォールコンはカトリックに改宗した。当時のアユタヤは,ナーラーイ王の治世下,比較的安定した国内状況を保っていたが,イギリス,オランダの東インド会社といったヨーロッパ勢力が進出し,それぞれが貿易独占を目論んでいた。当初はオランダ東インド会社に便宜を図ったナーラーイ王であったが,彼らの独占的かつ野心的な貿易方法を危険視し,華人船貿易の推奨に切り替えを図ろうとしていた。当初,イギリス側の人間であったフォールコンは,ナーラーイ王の宮廷で,外交・財務顧問としての地位を確立していった。アユタヤをめぐる西欧勢力の争いには,フランスの東インド会社も参入し,フランス側はフォールコンを抱え込むことで,アユタヤ交易への進出を狙っていた。フォールコンはフランスの軍事力を利用して,自らの勢力拡張を目論んだが,その目論見は,1688年に起きたペートラチャー将軍による革命によって潰えた。フォールコンは殺害され,マリアはいったん全財産を剥奪された上で,幼い息子二人を抱えて奴隷の身分に落とされた。しかしながら,ペートラチャーの王位就任後,特赦を得て,その宮廷の料理人となり,最終的には宮廷料理長の職を得たといわれる。そして,彼女が伝えたのが,ポルトガル起源のクレオール料理であった。フォールコンやマリア・ギオマールの数奇に満ちた生涯はその後,アユタヤへ来航する西洋人の間で伝説となり,語り継がれていったのであろう。

 日本からアユタヤへと,キリシタン禁令によって逃れた日本人の子孫が,ポルトガル文化を継承し,タイにポルトガル料理を導入したという物語は,たとえ伝説であっても,日本とアユタヤがキリシタンやポルトガル人を介して結ばれていたことを如実に物語るものとして興味深い。


グローバル化と日本

 16世紀は,日本と東アジアを越えた世界が密接に繋がることになった最初の時代である。とりわけ,火器の大量生産・流通,それに必要な鉛,火薬の原料の輸入を契機とした対外交渉の活発化など,ポルトガル人の来航が果たした役割は少なくない。筆者は近年,ポルトガル・スペインを中心とした「南蛮」との交流によってこの時代の日本人の生活環境に生じた変化を,グローバルな視点から総体的に考えたいと考えている。美術・工芸の分野では,従来,「南蛮美術」と呼ばれてきた漆器や屏風,絵画などに,日本とヨーロッパの折衷的要素のみならず,当時ポルトガルやスペインが支配した,もしくは通商ルートを敷いた様々な地域(具体的には中南米やインドなど)の技術や美的価値観が融合していることが近年指摘されている。日本人にとっての直接の交渉相手はポルトガル人やスペイン人であったとしても,彼等がもたらす文化には,彼等が通ってきた様々なルートに起源を持つものが混在しているのである。

 近年では,日本・アジア研究におけるヨーロッパ中心史観は批判と淘汰の対象となり,日本とアジアの古来からの繋がりを重視した歴史研究の傾向が顕著である。しかし,そのような研究動向には,少なからず現代の政治イデオロギー的なものが影響しており,日本にとって歴史的な繋がりがあった「世界」が,あたかも「アジア」に限定されるような,偏った世界観への閉じ込めの危険性が潜在することも意識される必要がある。例えば日本を含む東アジアのみを研究し,同時代の他の地域で生じていたことに全く関心を持たない研究者が,「グローバル」という言葉を便宜的に使っているのを見ると,やはり疑念を感じざるを得ない。

 繰り返して言うが,16世紀後半は,日本という地域が,本格的に東アジアを越えた世界へと繋がる時代であり,世界史的に見ればその時代の交易の活性化は,グローバル化の中に位置付けられる現象である。アジアの構成員としての日本の明確な位置付けは確かに大切ではある。しかし,世界市民としての将来の日本の若者の育成を考えた時に,世界には様々な文明,民族が存在し,どういった歴史的変遷があって,今現在我々が生きている「世界」が形成されているのか,そこに日本がどのように位置付けられるのかが理解され,将来一緒に働いたり,あるいは家庭を築いたりするかもしれない非日本人の相手が,どのような文化的背景を持つのかまで,漠然とでも意識できるような歴史教育が行われていくことを願ってやまない。


参考文献
・石井米雄ほか編『岩波講座 東南アジア史』3巻,岩波書店,2001年
・岩生成一『南洋日本町の研究』岩波書店(新版),1996年
・岩生成一『新版 朱印船貿易史の研究』吉川弘文館,1985年
・岡美穂子『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』東京大学出版会,2010年
・岡本良知『16世紀日欧交通史の研究』原書房(増補改訂版),1974年
・株式会社福砂屋編『カステラ文化誌全書』平凡社,1995年
・平尾義光他編『大航海時代の日本と金属交易』思文閣出版,2014年
・Smithies, Michael, Three Military Accounts of the 1688 "Revolution" in Siam, Itineria Asiatica, Orchid Press, 2002